吉野の地で天皇・皇后・六皇子が千年に渡る助け合いの誓いを交わす。
雨乞いや地震といった天候不順の記述が多い。
現在の警官にあたる者たちの怠慢を叱ったり、寺社に住む老人や病人の福利厚生に関して対策を命じたりする詔が出された

 五月五日、吉野宮に行幸された。
六日、天皇は皇后および草壁皇子様・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子に詔して「朕は今日、お前たちとともに朝廷で盟約を結び、千年の時が経っても、有事の起きることがないようにしたい。どうしたものか。」と言われた。皇子たちは共に「仰るとおりでございます。」と答えた。まず草壁皇子が先に進んで誓い、「天地の神々および天皇よお聞き入れください。私たち兄弟、年長者も年少者も併せて十余名は、それぞれ母を異にして生まれました。しかし同母であろうと異母であろうと、ともに天皇の勅に従い、助け合っていがみ合うようなことはいたしません。仮に今後この盟約に背くようなことがあったとしたら、命が滅んで子孫は絶えるでしょう。これを忘れません、過ちを犯すこともありません。」と言われた。五名の皇子は次々とこのように誓われた。そののち天皇は「我が皇子たちはそれぞれ異なる母から生まれた。しかし今では一人の同じ母から生まれたも同然に愛おしく思っている。」と言われ、衣の襟を開いて六名の皇子たちを抱擁された。そして誓い、「もしこの盟約に違うことがあれば、我が身はたちまちのうちに滅ぶだろう。」と言われた。

皇后も天皇と同じように誓われた。
七日、天皇は宮へ帰られた。
十日、六名の皇子たちは大殿の前で天皇を揃って拝礼された。

六月一日、桃の実ほども大きな雹が降った。
二十三日、雨乞いをした。
二十六日、今となってはどのような人物であったか定かでない大錦上大伴杜屋連が卒した。

秋七月六日、雨乞いをした。
十四日、広瀬・竜田の神を祭った。
十七日、四位の葛城王が卒した。

八月一日、詔して諸氏は采女を差し出すように言われた。
十一日、現在の奈良県桜井市初瀬にあたる泊瀬に行幸され、水流の激しい淵のあたりで宴を開かれた。これより先に諸王や群臣に詔して「乗馬のための馬のほかに良い馬を確保しておき、いつでも差し出せるように」と言われた。泊瀬から宮廷へ戻られた日、命じられた群臣たちが連れてきた良馬を現在の奈良県桜井市外山(とび)にあたる迹見駅家(とみのはゆまや)の道沿いでご覧になり、皆を駆けさせた。
二十二日、縵造忍勝(かづらのみやつこおしかつ)が吉兆の印となる稲を献上した。この稲は異なる畝で同じ穂をしていた。

二十五日、今となってはどのような人物であったか定かでない大宅王が卒した。

九月十六日、新羅に遣わした使者らが帰朝し、天皇を拝した。
二十三日、高麗に遣わした使者や、耽羅に遣わした使者らが帰朝し、ともに天皇を拝した。

冬十月二日、詔して「朕は近頃乱暴で非道な行いをする者たちが村落に多いと聞いた。これは為政者の過ちである。さらに聞くところによれば、乱暴者がいると知っても、面倒がって見ぬふりをして取り締まりに行かないという。あるいは、乱暴者に遭遇しても持て余して取り調べないという。情報が入ったときに対処がされていれば、どうして乱暴者が存在できるだろうか。そのため今後は、面倒がったり持て余したりせずに、上の者は下の者の過失を責め、下の者は上の者の横暴を諫め、国がしっかりと統治されるように。」と言われた。
十一日、地震があった。
十三日に勅があり、僧尼らの立ち居振る舞いや法服の色、併せて馬や従者が街中を行き来する際の様子について定めた。
十七日、新羅は阿飡金項那(あきんこんこうな)と沙飡薩虆生(さきんさちるいしょう)を遣わせ朝貢した。貢物は、金・銀・鉄・鼎・錦・絹・布・皮革・馬・狗・騾馬・駱駝といったもので十余種に渡り、別に献上したものもある。天皇・皇后・太子に金・銀・刀・旗の類をそれぞれ多数貢じた。
この月、詔して「前提として僧尼である者は普段は寺院の敷地内に住み、三宝である仏と仏法と僧たちを護るように。しかし老齢となったり病気になったりして、とても狭い部屋に臥せっていては、彼らは長く苦しみ、生活も不便になり、清くあるべき場所も穢れてしまう。そのため今後は、それぞれの親族および信仰の篤い者を頼りにして、一・二の屋舎を空き地に建てて、老人が養生し病人が服薬できるように。」とおっしゃられた。

十一月十四日、地震が発生した。
二十三日、大乙下という位の倭馬飼部造連(やまとのうまかいべのみやつこつら)を大使とし、小乙下の上寸主光父(うえのすぐりこうぶ)を小使とし、現在の種子島である多禰島に遣わした。このため一級の爵位を賜った。
この月、〔新羅の侵攻を想定して〕生駒山地の南端で現在の奈良県と大阪府の境にある竜田山と、現在の二上山である大阪山に関所を初めて設けた。加えて難波を城壁で取り囲んだ。

十二月二日、吉兆の印となる稲が見つかったことにより、親王・諸王・諸臣および百官の人らはそれぞれ禄を賜り、死罪以下の者たちは皆恩赦された。
この年、現在の和歌山県北東部にあたる紀伊国伊刀郡(いとのこおり)が吉兆の草となる芝草(しそう)を献上した。その形状はキノコに似ていた。茎の長さは一尺で、その傘はふた囲い(約三メートル)あった。また、因幡国は瑞稲を献上した。この稲には株ごとに枝があった。


挿絵:4点
文章:うら


日本書紀「天武天皇(14)」登場人物紹介

<天武天皇>
第40代天皇。生没年?-686年、在位673-686年。
大海人皇子。和風諡号は天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)。
壬申の乱を起こし、近江朝を滅ぼして即位した。
今回は弱者救済に関して骨を折っていた模様。それはそれとして采女も馬も欲しい。

<草壁皇子>
生没年662〜689年。母は持統天皇。681(天武10)年皇太子となるが、病死してしまう。

<大津皇子>
生没年663〜686年。母は大田皇女。683年太政大臣となるが、天武天皇崩御後謀反を企てた疑いで捕らえられ死を賜る。

<高市皇子>
生没年654?〜696年。母は尼子娘。壬申の乱で多数の功績がある。没時の冠位は浄広壱位。

<河嶋皇子>
生没年657〜691年。母は色夫古娘。大津皇子と親しかったが、天武天皇崩御後彼の謀反を密告したとある。

<忍壁皇子>
?〜705年。母は宍人臣〓媛(ししひとのおみかじひめ※かじは木へんに穀)。帝紀の編纂や大宝律令の編纂に関わった。

<芝基皇子>
?〜c715年。施基・志貴・志紀とも書く。父は天智天皇、母は道君伊羅都売(みちのきみいらつめ)。万葉歌人で光仁天皇の父。