あらすじ
文武天皇の治世3年目のできごとについて。
文武天皇三年春正月二十六日、「林坊に住む新羅の牟久売という女が一度に二男二女を産みました」と京職が報告した。そこで牟久売にあしぎぬ五疋、真綿五屯、麻布十端、稲五百束、乳母一人を下賜した。
正月二十七日、内薬司の桑原加都に直広肆の位を授け、連の姓を与える旨を詔した。勤勉さを評価してのことである。この日、難波宮に行幸した。
正月二十八日、浄広参の坂合部女王が卒去した。
二月二十二日、難波宮に天皇の乗った乗り物が到着した。
二月二十三日、難波宮行幸に随行した諸国の騎兵らの今年の調役を免除する旨を詔した。
三月四日、下野国が雌黄を献上した。
三月九日、河内国が白鳩を献上した。錦織ぐ一年の租役を免除するよう詔した。瑞鳥を捕らえた犬養広麻呂の戸籍の者は三年の免除とした。また、畿内の徒罪以下の罪人に恩赦を与えた。
三月二十七日、巡察使を畿内に派遣して違法なことがないか監察させた。
夏四月二十五日、越後の蝦夷百六十人に身分に応じて位を授けた。
五月八日、このように詔した。
「勲功の詮議は前代よりしていることで、功のある者に恩賞を与えることは代々重大なことである。それは壮士の節操を明らかにし、不朽の名声を残すためである。汝坂上忌寸老よ、其方は壬申の乱の折に命の危険を顧みず死地に赴き、国難に立ち向かってくれた。にもかかわらず、未だじゅうぶんな恩賞を与えずにいたところ、にわかに死去してしまった。黄泉路をゆく魂を慰めるため、直広壱の位を贈り、また、物を下賜しようと思う」
五月二十四日、役君小角を伊豆島へ流した。はじめ小角は葛木山に住んで呪術をよくすることで有名だった。外従五位下の韓国連広足を師匠としていたが、のちに能力を害せられたので妖術で人を惑わすと讒言した。故に遠いところへ配流されたものである。世の人々は、小角は鬼神をよく使役して水を汲ませたり薪を取らせたりしていて、いうことを聞かないとすぐに呪術で縛っていたのだと言った。

六月十五日、山田寺に封三百戸を与えたが、期限を三十年とした。
六月二十三日、浄広参の日向王が卒去した。使者を使わして弔意を伝えた。
六月二十四日、直冠以下の官人百五十九人に命じて日向王の屋敷に行かせ、葬儀に参列させた。
六月二十七日、浄大肆の春日王が卒去した。使者を遣わして弔意を伝えた。
秋七月十九日、種子島、屋久島、奄美、徳之島の人が朝廷の官人に従って来朝し、その地方の産物を献上した。朝廷はそれぞれの身分に応じて位と物を下賜した。徳之島の人が来たのはこれがはじめてである。
七月二十一日、浄広弍の弓削皇子が薨去した。浄広肆の大石王と直広参の路真人大人らを弔問に遣わした。弓削皇子は天武天皇の第六皇子である。
八月八日、南島からの献上物を伊勢大神宮および諸社に奉納した。
八月十一日、それぞれの身分に応じて官人たちに禄を賜った。
八月二十一日、伊予国が白燕を献上した。
九月十五日、高安城を修理した。
九月二十日、正大弐以下無位以上の者にそれぞれ弓矢と甲と鉾および兵馬を用意するように詔した。また、京と畿内も同様とした。
九月二十五日、新田部皇女が薨去した。王臣百官人らに勅して葬儀に参列させた。皇女は天智天皇の皇女である。
冬十月十三日、次のように詔した。
「天下の罪人たちを赦免する。但し、十悪と強盗と窃盗は赦免の対象外とする。越智と山科の二つの陵(斉明天皇陵と天智天皇陵)を造営しようとする故である」
十月二十日、浄広肆の衣縫王、直大壱の当麻真人国見、直広参土師宿禰根麻呂、直大肆の田中朝臣法麻呂、判官四人、主典二人、大工二人を越智山陵に、浄広肆の大石王、直大弐の粟田朝臣真人、直広参の土師宿禰馬手、直広肆の小治田朝臣当麻、判官四人、主典二人、大工二人を山科山陵にそれぞれ遣わして山陵を造営させた。
十月二十七日、巡察使を諸国に遣わして違法がないか監察させた。
十一月一日、日蝕があった。
十一月四日、文忌寸博士、刑部真木らが南島より戻ってきたのでそれぞれの身分に応じて位を進めた。
十一月二十九日、義淵法師に稲一万束を与えた。その学業を褒め称えてのことである。
十二月三日、浄広弍の大江皇女が薨去した。王臣百官人に命じて葬儀に参列させた。皇女は天智天皇の皇女である。
十二月四日、太宰府に命じて三野、稲積の二つの城を築かせた。
十二月二十日、鋳銭司を創設し、直大肆の中臣朝臣意美麻呂をその長官とした。
続日本紀「文武天皇(3)」登場人物
<文武天皇>
第42代天皇。