天智天皇の死を唐の使者郭務悰に知らせ、帰国させた後に、大海人皇子は近江朝廷の不穏な動きを察知した。そして皇子はとうとう挙兵の覚悟を決める。


日本書紀「天武天皇(2)」
 天武天皇(大海人皇子)元年 春 三月十八日に内小七位の阿曇連稲敷を筑紫に派遣して、天智天皇の崩御を郭務悰らに告げさせた。郭務悰らは全員、喪服を着て、東に向かって三回声を上げて拝み、哀悼の意を表明した。二十一日に彼らは再び拝み、書物を入れる箱と唐からの物産を進上した。
 夏 五月十二日に、甲冑と弓矢を郭務悰に下賜した。この日、下賜した物品は、合わせて絁一六七三匹、布二八五二端、綿六六六斤だった。二十八日に新羅の復興した高句麗が、前部の富加抃らを派遣して献上品を進上した。三十日に郭務悰らは帰国した。
 この月に朴井連雄君が大海人皇子に奏上して「私は私的な用事がございまして、美濃に向かいます。時に近江朝廷は美濃・尾張の国司に『天智天皇の陵墓を造営するために、前もって人夫を指名し定めよ』と仰りました。それなのに、おのおのに武器を持たせています。私は、彼らは陵墓を造営するのではなく、必ず有事となると思います。もしも早急に退避しなければ、間違いなく危険が迫るでしょう」と申し上げた。また、ある人は奏上して「近江京から飛鳥京に至るまで、各地に監視人を置いております。また宇治橋の守衛人に命じて、大海人皇子の宮の舎人の食糧を運ぶのを阻害しています」と申し上げた。

大海人皇子はこのことを恐れて問いただし、これらが事実であることを知った。そこで、詔して「朕が天皇の位を譲り、隠遁したのは、病気を治し、身体を健全にして、ひたすらに長い人生を全うしたいがためである。それなのに今、やむをえず災難を受けた。どうして何もせず身を滅ぼすことがあろうか」と仰った。


挿絵:やっち
文章:紀貫過


日本書紀「天武天皇(2)」登場人物紹介

<天智天皇>

天武天皇(大海人皇子)の兄。天智天皇七年(668)に即位し、天智天皇一〇年(671)に崩御した。

<天武天皇(大海人皇子)>
大海人皇子のこと。中大兄皇子の同母弟。中大兄皇子の死後、天智天皇の子、大友皇子の主導する近江朝廷と対立を深める。