鎌足は、中大兄皇子が賢明で優れた君主として見出すが、皇子との面識がなかった。蹴鞠の一件がきっかけで彼らは親密になる。


(六)中大兄皇子との出会い

鎌足はさらに、君主とすべき人物を求めて広く皇族(王宗)の人物を見た。そこでただ一人、中大兄皇子だけが遠大な計略を抱き、並外れて賢明で優れた人物であり、ともに乱れた世を平らげ、正道に戻すことのできる人物であると思われた。

しかし、鎌足は中大兄皇子と面識を得る機会がなかった。

たまたま蹴鞠をしている庭を通りがかったところ、中大兄皇子の皮製の沓が、鞠とともに飛んで落ちてきた。鎌足がそれを手にとって差し上げたところ、中大兄皇子は礼を尽くして受け取った。これをきっかけにして、二人は打ち解け合い、魚と水のように親密な君臣の関係となった。

(七)蘇我入鹿の暴挙

皇極天皇2年(643年)10月、蘇我入鹿は王子たちとともに策略を巡らせ、厩戸皇子の息子である山背大兄皇子を殺そうと考えた。

「山背大兄は、蘇我の家系に生まれた。その優れた徳性は夜に知れ渡り、人々を正しい方向に教え導く影響力にあふれている。
舒明天皇が皇位を継承されたとき、臣下たちは「叔父(蘇我蝦夷)と甥(山背大兄)の間には、深い溝がある」と噂した。また、山背大兄を次の天皇として推挙した境部摩理勢を蘇我蝦夷が殺したことによって、恨みはすっかり深まってしまった。まさにいま、舒明天皇がお隠れになり、皇后が即位を待たずに政務を執られている。天皇になることを望んでいた山背大兄の心中は、きっと穏やかではないだろう。どうして乱を起こさないことがあろうか。甥だからと温情をかけることなく、国の安定を図るために山背大兄を亡き者にする計略を実行しよう」

諸王子たちは、それに賛同した。入鹿の方針に従わなければ我が身に危害が及ぶと恐れて、みな承諾するしかなかったのである。

そして、とうとう某月某日、山背大兄を斑鳩寺(法隆寺下層の若草伽藍)で殺害した。良識のあるものは心を痛めた。入鹿の父である蘇我蝦夷は怒って、「入鹿よ、お前のような愚か者がどこにいる。我々一族は、いままさに滅亡しようとしている」と言った。不安を隠せない面持ちであった。

一方の入鹿は、喉に刺さった魚の骨(山背大兄)をようやく取り除くことができ、これで思い残すことはないと思った。新の王莽のごとく、王朝を乗っ取られてしまいそうなきな臭さが徐々に漂い、後漢の董卓のごとく凶暴に権勢をふるいかねない入鹿の傲慢な振る舞いが、とうとうこの国で行われてしまったのである。


挿絵:あめ
文章:くさぶき


登場人物紹介

<中大兄皇子>
舒明天皇と皇極天皇の子。