藤原鎌足の生まれと人柄について記す。
(1)鎌足の誕生
内大臣(鎌足のこと)は、諱(生前の実名)を鎌足、字を仲郎という。大和国高市郡の人である。その始祖は天児屋根命である。代々、天神地祇の祭祀を担当する職に従事し、人と神との間をとりもってきた。そのため、その氏を大中臣という。中臣御食子の長男で、母は大伴夫人である。
鎌足は、推古天皇三四年(626年)歳次甲戌に、藤原(現在の奈良県高市郡明日香村小原)の邸宅で生まれた。鎌足は、母親の胎内にいながら、その泣き声が体外にまで聞こえた。通常の妊娠期間よりも長い、12ヶ月を経て誕生した。鎌足の外祖母であり、大伴久比子の妻が大伴夫人に、こう言った。
「あなたは、身ごもっている月数が通常の人とは異なっています。きっと生まれてくる子は非凡で、人知を超えた優れた功績を残すでしょう」
大伴夫人も内心、不思議に思った。出産の際に陣痛の苦しみはなく、思いの外すんなりと生まれてきた。
(2)鎌足の人柄
鎌足は、人に対する思いやりが強く、親を大切にする性格で、思考力が鋭く、先見の明があった。幼い頃から学問を好み、さまざまな分野の書伝を読み漁った。太公望が著したという兵法書『六韜』をいつも読んでいて、くり返し読まなくても暗誦することが出来た。
生まれつき体が大きく上品で、用紙も非常に優れていた。前から見る者は仰ぎ見るように接し、後ろから見るものは拝むように頭を垂れるほどであった。ある人は「益荒男が二人、常にそばに付き従っているかのようだ」と言った。鎌足はこの言葉を聞いて、心のなかで自負の念を抱いた。見識のあるものは心を寄せ、その名は日に日に広まっていった。
(3)鎌足の奇相
皇極天皇に寵遇されていた侍臣である蘇我入鹿(宗我鞍作)は、威厳と恩恵で周囲を自分に服従させ、その権威は朝廷を傾けるほどであった。入鹿が怒鳴りつけて指図すると、従わないものはいなかった。
ただ、鎌足と会ったときは、入鹿が自然に慎みかしこまった態度を取っていた。鎌足に対するそのような態度を、入鹿は自分でも内心ふしぎに思っていた。
以前、群公たちの子が、旻法師の仏堂に集まって『易経(周易)』を読むことがあった。大臣が遅れて仏堂にやってくると、座っていた入鹿はわざわざ対等の礼(抗礼)で挨拶した後、一緒に座った。講義が終わり解散するときに、旻法師は鎌足に目配せして合図を送り、その場に鎌足を留めた。
「私の仏堂に出入りするもので、蘇我入鹿に及ぶ者はいない。ただ、そなたは精神において普通でない、優れた相が出ていて、間違いなく入鹿より勝っている。深く己のみを大切にするように」と言った。
挿絵:ユカ
文章:くさぶき
藤氏家伝「鎌足伝1-3」登場人物紹介
<藤原鎌足>
父は中臣御食子、母は大伴智仙娘(大伴夫人)。藤原氏の始祖。
<蘇我入鹿>
豪族、蘇我蝦夷の子。