病に伏した天皇は大海人皇子に後を任せると伝えるが、大海人皇子は固辞し出家する。
日本書紀「天智天皇(9)」
9月、天皇が病気になられた。
冬10月7日、新羅が沙飡金万物(ささんこんまんもつ)らを遣わして調を奉った。
8日、内裏で100体の仏像の開眼供養があった。
この月、天皇が使いを遣わして、袈裟・金鉢・象牙・沈水香(じんこう)・栴檀香(せんだんこう)及び数々の珍宝を法興寺の仏に奉らせられた。
17日、天皇は病が重くなり、東宮(大海人皇子)を呼ばれ寝所に召されて詔し、
「私の病は重いので、後事をお前に任せたい」
云々と言われた。東宮(大海人皇子)は病と称して、何度も固辞して受けられず、
「どうか大業は皇后にお授けください。そして大友皇子に諸政を行わせてください。私は天皇のために出家して、仏道修行をしたいと思います」
と言われた。
天皇はこれを許された。東宮は立って再拝した。内裏の仏殿の南においでになり、胡座に深く腰掛けて、頭髪をおろされ、沙門の姿となられた。
天皇は次田生磐(すぎたのおいわ)を遣わして袈裟を送られた。
19日、東宮は天皇にお目にかかり、
「これから吉野に参り、仏道修行を致します」
と言われた。天皇は許された。東宮は吉野に入られ、大臣たちがお仕えし宇治までお送りした。
11月10日、対馬国司が使いを大宰府に遣わして、
「今月の2日に、沙門道久(どうく)・筑紫君薩野馬(さちまや)・韓島勝裟婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのしのおびといわ)の4人が唐からやってきて、『唐の使人郭務悰(かくむそう)ら600人、送使沙宅孫登ら1400人、総計2000人が船47隻に乗って比知島(ひちしま)に着きました。語り合って、今我らの人も船も多い。すぐ向こうに行ったら恐らく向こうの防人は驚いて射かけてくるだろう。まず道久らを遣わして、前もって来朝の意を明らかにさせることにいたしました』の申しております」
と報告した。
23日、大友皇子は内裏の西殿の織物の仏像の前におられた。左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣が侍っていた。大友皇子は手に香鑪をとり、まず立ち上がって
「6人は心を同じくして、天皇の詔を承ります。もし違背することがあれば、必ず天罰を受けるでしょう」
云々とお誓になった。
そこで左大臣蘇我赤兄らも手に香鑪を取り、順序に従って立ち上がり涙を流しつつ、
「臣ら5人は殿下と共に、天皇の詔を承ります。もしそれに違うことがあれば、四天王が我々を打ち、天地の神々もまた罰を与えるでしょう。三十三天もこのことをはっきりご承知おきください。子孫もまさに絶え、家門も必ず滅びるでしょう」
云々と誓い合った。
24日、近江宮に火災があった。大蔵省の第三倉から出火したものである。
29日、5人の臣は大友皇子を奉じて、天皇の前に誓った。この日新羅王に、絹50匹・絁50匹・錦1000斤・なめし皮100枚を賜った。
12月3日、天皇は近江宮で崩御された。
11日、新宮で殯した。この時次のような童謡があった。
御吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 島辺も良き 嗚呼苦しヱ 水葱の下 芹の下 吾は苦しヱ
(み吉野の鮎こそは、島の辺りにいるのもよかろうが、私はあぁ苦しい、水葱の下、芹の下にいて、あぁ苦しい)
臣の子の 八重の紐解く 一重だに 未だ解かねば 皇子の紐解く
(臣下の私が自分の紐を一重すら解かないのに、皇子はご自分の紐をすっかりお解きになっている)
赤駒の 行き憚る 真葛原 何の伝言 直にし良けむ
(赤駒が行き悩む葛の原、そのようにまだるこい伝言などされずに、直接に仰ればよいのに)
17日、新羅の調を奉る使いの沙飡金万物(ささんこんまんもつ)らが帰途に着いた。
この年、讃岐国の山田郡の人の家に、4本足のひよこが生まれた。また宮中の大炊寮に8つの釜があり、それがひとりでに鳴った。ある時は1つ鳴り、ある時は2つ、ある時は3つ一緒に鳴った。またある時は8つ共一緒に鳴った。
挿絵:茶蕗
文章:やっち
日本書紀「天智天皇(9)」登場人物紹介
<天皇>
天智天皇。中大兄皇子。
<東宮>
大海人皇子。天智天皇の弟。
<大友皇子>
天智天皇の息子。