皇太子(天智天皇)は、母である斉明天皇、妹の間人皇女、娘の大田皇女の葬儀を執り行った後、近江へ遷都し、ついに皇位に就く。


日本書紀「天智天皇(5)」

天智天皇即位六年(西暦667年)、春二月二十七日。
皇太子(=天智天皇)の母君である天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと=斉明天皇)と、その娘・間人皇女(はしひとのひめみこ)を小市岡上陵(おいちのおかのうえのみささぎ)に合葬した。
同日、天皇の御孫・大田皇女(おおたのひめみこ)を、小市岡上陵の前の墓に埋葬した。
高麗(こま)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の使者は皆、大路で哀悼を捧げた。
皇太子は群臣に語られた。
「我は皇太后天皇(おおきさきのすめらみこと=斉明天皇)の勅(みことのり)を承り、人民を憂い愛するが故、石槨(いわき=横穴式石室の墳墓)の役(えだち)を赦免とした。 願わくば、永代に渡り、これをあきらかなる戒めとせよ」

三月十九日。
皇太子は近江に遷都した。
しかしこの時、人民は遷都を喜ばず、諷刺する者が多かった。
童謡(わざうた)もまた流行り、昼夜となく、失火も後を絶たなかった。

夏六月。
葛野郡(かどのこおり)から白いツバメが献上された。

秋七月十一日。
耽羅(たむら/タムラ=済州島)から佐平(さへい/チャピョン=百済の最高官位)・椽磨(でんま/ヨンマ)らが使者として遣わされ、貢ぎ物を献上した。

八月。
皇太子は倭(やまと)の宮都(=飛鳥)に行幸された。

冬十月。
高麗では、大兄(だいきょう/テヒョン=長男、または高麗の官位)・淵男生(えんだんせい/ヨン・ナムセン)が城を出て、国を巡り歩いた。
そこで、城内にいた二人の弟は、側近たちの讒言にそそのかされ、男生の帰城を拒んだ。
そのため、男生は奔走して大唐に至り、高麗を滅ぼそうと謀った。

十一月九日。
百済の鎮将(ちんしょう)・劉仁願(りゅうじんがん)が、熊津都督府熊山県令(ゆうしんととくふゆうせんけんれい)・上柱国(じょうちゅうこく)の司馬法聡(しばそうほう)らを遣わして、大山下(だいせんげ)・境部連石積(さかいべのむらじいわつみ)らを筑紫都督府(つくしのおおみこともちのつかさ=筑紫の太宰府)に送り還した。

十一月十三日。
司馬法聡らが帰途についた。
小山下(しょうせんげ)・伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)、大乙下(だいおつげ)・笠臣諸石(かさのおみもろいわ)を送使とした。
同月、倭国(やまとのくに)に高安城(たかやすのき)、讚吉国(さぬきのくに)山田郡に屋嶋城(やしまのき)、対馬国に金田城(かなたのき)が築かれた。

閏十一月十一日。
皇太子は、耽羅の使者・椽磨らに、貢ぎ物として、錦十四匹(むら)・纈(ゆはた=絞り染の絹)十九匹・緋(あけ)二十四匹・紺布(はなだのぬの)二十四端(むら)・桃染布(つきそめのぬの)五十八端・斧二十六・釤(なた)六十四・刀子(かたな)六十二枚(ひら)を賜った。

即位七年(西暦668年)春一月三日。
皇太子が天皇に即位された。
――ある本には、即位六年(西暦667年)三月に即位されたという。

一月七日。
天皇は、群臣を招いて内裏で祝宴をされた。

一月二十三日。
送使・伊吉連博徳らが帰還した。

二月二十三日。
古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)の娘・倭姫王(やまとのひめおおきみ)を立てて、皇后(きさき)とされた。
天皇は全部で、四人の嬪(みめ=皇后ではない妃)を持たれた。

蘇我山田石川麻呂大臣(そがのやまだいしかわまろのおおおみ)の娘を、遠智娘(おちのいらつめ)という。
――ある本には、美濃津子娘(みのつこのいらつめ)という。
一男二女を産んだ。
第一を大田皇女(おおたのひめみこ)、第二を鸕野皇女(うののひめみこ=後の天武天皇皇后で、持統天皇)という。
やがて天下を治めるに至った際には、飛鳥淨御原宮(あすかのきよみはらのみや)を皇居とされた。
そして後に、藤原(ふじわら)に遷都された。
第三を建皇子(たけるのみこ)という。唖(おうし)で言葉を話すことができなかった。
――ある本には、遠智娘は一男二女を産んだという。第一を建皇子、第二を大田皇女、第三を鸕野皇女という。
――ある本には、蘇我山田麻呂大臣の娘を芽淳娘(ちぬのいらつめ)という。大田皇女と娑羅々皇女(さららのひめみこ)を産んだという。

次に、遠智娘に妹がおり、姪娘(めいのいらつめ)という。
御名部皇女(みなべのひめみこ)と阿陪皇女(あべのひめみこ=後の元明天皇)を産んだ。
阿陪皇女が天下を治めるに至った際には、藤原宮を皇居とされた。
そして後に、宮都を乃楽(なら)に遷都された。
――ある本には、姪娘を名付けて、桜井娘(さくらいのいらつめ)という。

次に、阿倍倉梯麻呂大臣(あべのくらはしのまろのおおおみ)の娘を、橘娘(たちばなのいらつめ)という。
飛鳥皇女(あすかのひめみこ)と新田部皇女(にいたべのひめみこ)を産んだ。

次に、蘇我赤兄大臣(そがのあかえのおおおみ)の娘を、常陸娘(ひたちのいらつめ)という。
山辺皇女(やまべのひめみこ)を産んだ。

また宮人(めしおみな=後宮の女官)にも、男女の子を産んだ者が四人いた。

忍海造小竜(おしぬみのみやつこおたつ)の娘を、色夫古娘(しこぶこのいらつめ)という。
一男二女を産んだ。
第一を大江皇女(おおえのひめみこ)、第二を川嶋皇子(かわしまのみこ)、第三を泉皇女(いずみのひめみこ)という。

また、栗隈首徳万(くるくまのおびととこまろ)の娘を、黒媛娘(くろめのいらつめ)という。
水主皇女(もいとりのひめみこ)という。

また、越の道君伊羅都売(みちのきみのいらつめ)がいた。
施基皇子(しきのみこ)を産んだ。

また、伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)がいた。
伊賀皇子(いがのみこ)を産んだ。
この皇子の後の名を、大友皇子(おおとものみこ)という。


挿絵:やっち
文章:やすみ


日本書紀「天智天皇(5)」登場人物紹介

<皇太子>
ここでは中大兄皇子(葛城皇子)のこと。後の天智天皇。
<斉明天皇>
中大兄皇子、間人皇女の母。舒明天皇の皇后で、舒明天皇が崩御した後、皇極天皇として即位。
また一代あけて、斉明天皇として再び皇位に就いた。
‌<間人皇女>
中大兄皇子の同母姉。孝徳天皇の皇后だった。母・斉明天皇と共に小市岡上陵に葬られる。
小市岡上陵は、飛鳥の牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)が有力視されている。
<大田皇女>
中大兄皇子が遠智娘との間にもうけた長女。大海人皇子(おおあまのみこ=後の天武天皇)の妃だった。
妹に、後の持統天皇である鸕野皇女がいる。
墓は、牽牛子塚古墳に隣接する越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)が有力視されている。