白村江の戦いの後、天智天皇三年から五年までの内政や外交、淡海国大富豪発生事件について述べる。


日本書紀「天智天皇(4)」

天智天皇三年の二月九日、天皇は皇太弟の大海人皇子に冠位の階名を増設すること、および、氏上、民部、家部等のことを命じた。
 その冠位は二十六階ある。
 大織、小織、大縫、小縫、大紫、小紫、大錦上、大錦中、大錦下、小錦上、小錦中、小錦下、大山上、大山中、大山下、小山上、小山中、小山下、大乙上、大乙中、大乙下、小乙上、小乙中、小乙下、大建、小建。
 この二十六階である。以前の「華」を改めて「錦」とし、錦から乙に至るまで、六階を加えた。また、以前の初位一階に換えて大建、小建の二階とした。以上が以前との違いであり、他は前の通りである。
 大氏の氏上には太刀を賜り、小氏の氏上には小刀を賜った。伴造等の氏上には楯や弓矢を賜った。またその民部、家部を定めた。
 三月、百済王善光らを難波に住まわせた。京の北に星が落ちた。この春、地震があった。
 夏五月十七日、百済に置かれた唐の鎮将劉仁願が朝散大夫の郭務惊を日本に遣わして表凾と献物を進上した。この月に大紫の蘇我連大臣が亡くなった。
 六月に島皇祖母命(しまのすめみおやのみこと/斉明天皇の母で天智天皇・大海人皇子の祖母)が亡くなった。
 冬十月一日、郭務惊らを発たせる勅を発した。この日、中臣内臣に勅して沙門智祥を遣わして品物を郭務惊に贈らせた。四日、郭務惊らを饗応した。
 この月、高麗の大臣の蓋金がその国で亡くなった。彼は子供らに次のように遺言した。「おまえたち兄弟は魚と水のように仲良くして爵位を争うことのないように。もしこのようにしなければ必ず隣の者に嗤われるであろう」

 十二月十二日、郭務惊らは帰途についた。
 この月、淡海国からこのような報告があった。「坂田郡の人、小竹田史身(しのだのふひとむ)の猪の水桶の中にたちまちに稲が生え、身がそれを収穫すると日に日に富が増えました。栗太郡の人、磐城村主殷(いわきのすぐりおお)の新婦の部屋の敷居の端に一夜のうちに稲が生えて穂をつけました。その次の日には稲穂が垂れて熟しておりました。翌日の夜にはさらに一つの穂が生じていました。新婦が庭に出ると天から二つの鍵が落ちてきました。新婦がそれを拾って殷に渡すと、殷は大金持ちになりました」
 この年、対馬、壱岐島、筑紫国などに防人と烽を置いた。また、筑紫に大堤を築いて水を貯えさせた。これを名付けて水城という。
天智天皇四年春二月二十五日、間人大后(はしひとのおおきさき/孝徳天皇の皇后で天智天皇の妹)が亡くなった。この月に百済国の官位の階級と我が国のそれを比べ合わせて検討し、佐平(百済国の最高級の官位)鬼室福信の功を以て縁者の鬼室集斯に小錦下を授けた(彼の百済での位は達率)。また、百済国の百姓男女四百余人を近江国神前郡に住まわせた。
 三月一日、間人大后の供養のために三百三十人を得度させた。この月、神前郡の百済人に田を与えた。
 秋八月、達率の答㶱春初を遣わして長門国に城を築かせた。達率の憶禮福留、四比福夫を筑紫国に遣わして大野と椽の二城を築かせた。耽羅国の使者が来朝した。
 九月、唐が朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高らを遣わした。(「ら」とは、右戎衛郎将上柱国[姓名不明]、百済将軍朝散大夫郭務惊、その他二百五十四人をいう。彼らは七月二十八日に対馬に至り、九月二十日に筑紫に至る。二十二日に表凾を進上した)
 冬十月十一日、菟道で盛大に閲兵した。
 十一月十三日、劉徳高らを饗応した。
 十二月十四日、劉徳高らに品物を賜った。この月、彼らは帰途についた。
 この年、小錦下の守君大石らを大唐に遣わした云々という。(「ら」とは、小山の坂合部連石積、大乙の吉士岐弥、吉士針間をいう。唐の使者を送っていったものであろう)
天智天皇五年春正月十一日、高麗が前部能婁らを遣わして貢物を奉った。この日、耽羅国も王子姑如らを遣わして貢物を奉った。
 三月、天智天皇は自ら佐伯子麻呂の家に行き、その病を見舞い、以前から仕えてきた功績を称えてお嘆きになった。
 夏六月四日、高麗の前部能婁らが帰途についた。
 秋七月、大水があった。この秋、祖と調を免除した。
 冬十月、高麗が臣乙の相奄鄒らを遣わして貢物を奉った。(大使は臣乙相奄鄒、副使は達相遁、二位は玄武若光等である)
 この冬、京の鼠が近江へ向かって移動した。百済の男女二千余人を東国に住まわせ、僧俗を選ばず三年間、官食を賜った。倭漢沙門知由が指南車を献上した。


挿絵:ユカ
文章:水月


日本書紀「天智天皇(4)」登場人物紹介

<天智天皇>
第38代天皇