忠実な臣下を自ら殺めた王は国諸共、破滅の道を進んでいく……。


日本書紀「天智天皇(3)」

三月に、前方軍の将軍上毛野君稚子・間人連大蓋、中間軍の将軍巨勢神前臣訳語・三輪君根麻呂、後方軍の将軍阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄を遣わして、2万7千人を率いて、新羅を打たせた。夏五月の癸丑の朔日に、犬上君(名は不明)が馳せて、戦のことを高麗に告げて帰還する。百済王余豊璋が石城にお見えになった。豊璋は、そこで福信の罪を語る。六月に、前方軍の将軍上毛野君稚子等が、新羅の沙鼻岐奴江、二つの城を奪取する。百済王豊璋は、福信に謀反の考えがあることを疑い、革を以て掌を穿ち縛る。その時には自ら(福信の罪の是非を)決め難し。どうすればよいか分からず。そこで諸臣下に問う。「福信の罪は、既にこの通りである。斬るべきか否か」と。ここで、達率徳執得が「この悪人は、放免すべきではない」と申した。福信はすぐさま執得に唾を吐きかけて口汚く罵った。王は、猛き者を手引きして(福信の首を)斬り、その首を(防腐のために)塩酢に漬けた。
秋八月の壬午の十三日のことである。新羅は、百済王が自らの良き将軍を斬れるを以て、すぐに国に侵入して最初は州柔を奪取せんと企んだ。ここで、百済が、賊の謀を知って、諸々の将軍に語ることには「今し方聞いたのだが、大和国の救援軍の将軍廬原君臣が猛き者万余りを率いて、まもなく海を越えて到るだろう。願わくば、諸々の将軍等は、予め考えておいてくれ。私が自ら赴いて、白村で待ち出迎えよう」と云々。十七日に、賊の将軍は、州柔に到着して、その王城を包囲した。大唐の軍の将軍は、戦用の船170隻を率いて、白村江に軍を配置した。二十七日に、大和の船上軍で最初に辿り着いた者と、大唐の船上軍とが合戦する。大和は負けて退く。大唐は陣にて堅守する。二十八日に、大和の諸々の将軍と、百済王と、天候を観察することなく、互いに語って曰く「我等が先陣を切って戦えば、向こうは自ずから撤退するだろう」と云々。さらに大和の隊乱れた中間の軍の者共を率いり、進軍して大唐の陣を堅守する軍を倒した。大唐は、すぐさま左右から船で挟んで包囲し戦う。瞬く間に、官軍は敗戦を重ねた。水に落ちて溺死する者数知れず。船を旋回させることもできず。朴市田来津は、天を仰いで祈り、歯を食いしばって憤怒し、数十人を殺した。

最後は戦いながら死んだ。この時に、百済王豊璋は、数人と船に乗って、高麗に逃げ去った。九月の辛亥の七日に、百済の州柔城は、初めて唐に降伏した。この時に、国の人々は共に語りて曰く「州柔は降伏した。このことに対して言うことは何もない。百済の名は、この日に絶えた。丘墓のところへ、果たしてまた行けるだろうか。ただ弖礼城に向かって、大和の軍の将軍等に会い、事の転機となる切っ掛けを共に謀るのみ」と云々。とうとう元より枕服岐城に居る妻子等に教えて、国を去るという考えを伝達した。十一日に、牟弖へ出立した。十三日に、弖礼に到る。二十四日に、大和の船上軍、佐平余自信・達率木素貴子・谷那晋首・憶礼福留、国の民等は、弖礼城に到る。明くる日に、船で発ち始めて大和に向かう。


挿絵:わたつみ
文章:松


日本書紀「天智天皇(3)」登場人物紹介

<余豊璋>
7世紀後半の百済の王子。生没年不詳。
<福信>
鬼室福信。百済末期の武将。敵の言葉を信じた豊璋によって殺された。