百済救援のため西へ向かう天皇の船は大伯の海、熟田津を経て長津に到着し、天皇は朝倉宮に移り住まれた。
日本書紀 斉明天皇(10)
7年春1月6日、天皇の船は西に向かって航路についた。
8日、船が大伯(おおく)の海に至った時、大田姫皇女が女子を産んだ。それでこの皇女を大伯皇女と名付けた。
14日、船は伊予の熟田津(にきたつ)の石湯行宮(いわゆのかりみや。道後温泉)に停泊した。
3月25日、船は本来の航路に戻って娜大津(なのおおつ。博多港)に着き、磐瀬行宮(いわせのかりみや)にお入りになった。天皇はこの地を長津と改名された。
夏4月、百済の福信が使いを遣わして上表し、百済の王子糺解(くげ。豊璋)をお迎えしたいと乞うた。(釈道顕の日本世記には、百済の福信は書を奉って、その君糺解の送還を日本の朝廷に願い出たという。またある本に、4月、天皇は朝倉宮に移り住まれたとある)
5月9日、天皇は朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)にお移りになった。この時朝倉社の木を切り払ってこの宮を造られたので、神が怒って御殿を壊した。また宮殿内に鬼火が現れた。このため大舎人や近侍の人々に、病んで死ぬ者が多かった。
23日、耽羅(たんら。済州島)が初めて王子阿波伎(あわぎ)らを遣わして調を奉った。(伊吉博徳の書に、この年1月25日、帰路の途につき越州に着いた。4月1日越州から出発して東に帰った。7日檉岸山(ちょうがんさん)の南に着いた。8日未明に西南の風に乗って船を大海に出したが、海上で航路に迷い漂流して苦しんだ。九日八夜してやっと耽羅島に着いた。そこで島人王子阿波伎ら9人を招きもてなし、この船に乗せて、朝廷に献じようと考えた。5月23日、朝倉の朝廷にこの島人を奉った。耽羅の人が入朝するのは、この時に始まった。また智興(ちこう)の従者の東漢草直足島(やまとのあやのかやのあたいたりしま)のために讒言され、使者らは唐の朝廷から恩寵ある勅を受けられなかった。使者らの怒りは天上の神に通じて、足島は雷に打たれて死んだ。時の人は「倭の天の報いは早い事だ」と言ったという)
挿絵:茶蕗
文章:やっち
日本書紀「斉明天皇(10)」登場人物紹介
<大田姫皇女>
中大兄皇子の子で、大海人皇子の妃。
<鬼室福信>
百済の王族で将軍。