百済の使者、遥々海を越えて来朝。


日本書紀 斉明天皇(9)

冬10月。百済の佐平(官位名)鬼室福信は、佐平の貴智等を遣わし、唐の捕虜100人余りを献上して、今は美濃国の不破・方県2郡の唐人(もろこしびと)等である。また、軍を要求して救いを請い、重ねて王子の余豊璋を欲して曰く、
[ある本によれば、佐平の貴智・達率の正珍である]
「唐人は我が悪しき賊を率い、我が国境を揺さぶりに来て、我が国を覆し、我が君臣を捕虜にした。 [百済王の義慈、その妻恩古、その子隆(りゅう)等。王の臣下、佐平の千福(せんふく)・国弁成(こくべんじょう)・孫登(そんとう)等凡そ50名余が、秋7月13日に蘇将軍に捕らわれ唐国へ連れ去られた。もしや是、持つ理由なき兵の兆しか。] 百済国は遥かなる天皇の御恵みにお頼り申し、さらには鳩が集うが如く寄り集めて国を成した。今し方謹んで願い申すは、百済国より遣わされ天朝に侍る王子豊璋を迎え、国の君主になってもらいたいということである」と。
詔して曰く、
「軍を要求して救いを請うのは古より聞く、危うきを助け絶えしものを継ぐ普遍的な理に多く見られることよ。百済国が窮し我を頼るべく来朝したのは、本国を失い、乱れ、頼りようも話しようもないからだ。槍を枕にし肝を嘗め、必ずや救いがあると。遠方より来朝し思いを述べる、そのような志を奪うのは難しい。将軍に分けて命じ百道を共に進め、雲のように会い雷のように動き沙㖨(さたく)で共に集まり、その敵を斬ってかの倒懸(とうけん)を緩和せよ。これを行うために官人を納得させ、礼(身なりや所作)を以て発ち遣わせよ」と。
[王子豊璋及び妻子、その叔父忠勝等を送った。その発ち遣わした時期は、于7年に見える。ある本曰く、天皇は豊璋を王に立て、塞上を代わりとし、礼を以て発ち遣わした。]
12月丁卯朔庚寅(24日もしくは25日?)、天皇は難波宮へと御幸した。天皇は、福信が願う気持ちに添い、援軍を遣わすべく、筑紫へ御幸しようと考えた。それでまず初めにその地へ御幸し、様々な武器を用意させた。

この年、百済のために新羅を討たんと欲し、そこで駿河国に詔して船を造らせた。造船が終わり、績麻(うみお?)地域まで(船を)引いて到着した時、その船が夜中に理由もなく船尾と船首が反対向きになった(風もないのに回転したということか)。人々は最後は敗れるのだと悟った。科野(しなの)国曰く、
「蠅の群れが西に向かい、巨坂(おおさか)を飛び越えた。大きさは10圍(い・約150㎝)ほど、高さは蒼天に届くほどであった」
あるいは、援軍の大敗を暗示した怪異ではないかとも悟った。
こんなわらべ歌がある。曰く、
“まひらくつ のくれつれ おのへたをらふく のりかりがみ
 わたとのりかみ をのへたをらふく のりかりが いしとわよとみ をのへたをらふく のりかりが”
“摩比邏矩都能倶例豆例於能幣陀乎邏賦倶能理歌理鵝美和陀騰能理歌美

  烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝甲子騰和與騰美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝”
(注釈:大敗を予言した歌とする説もあるが、今日まで正確な解釈は不明。災厄と流行歌を結び付けて不気味がる風潮があった点にも留意したい)


挿絵:ユカ
文章:松


日本書紀「斉明天皇(9)」登場人物紹介

<鬼室福信>
百済の王族であり、また将軍でもある。
<余豊璋>
義慈王(百済最後の王)の子。