高麗の僧である道顕が、百済滅亡の状況を語る。
斉明天皇六年秋七月庚子朔乙卯(7月16日)、高麗の使者である乙相賀須文らが帰国した。また、覩貨邏人の乾豆波斯達阿は本国に帰るため、「後にまた大国にお仕えいたします。よって妻を留めてその証とします」と送使を要請した。そうして数十人とともに西海路に出航した。
高麗の僧道顕の日本世記によると、「七月に、云々。春秋智は大将軍蘇定方の手を借りて、百済を撃たせて滅した。あるいは、百済は自ら滅びたのである。君の大夫人は妖女であり、無道にも、国の権力を欲しいままに手に入れて、賢く善良な人を誅殺したために、この国難を招いた。よくよく気をつけることだ、という。その注には、新羅の春秋智は高麗の内臣蓋金に救援を願い出たが叶わなかった。それゆえ、また唐に使者を遣って、母国である新羅の衣冠を捨て、自ら唐服に改めるなどして天子に媚を呈して、隣国に禍害を被らせようという思惑をめぐらせたのであるという」という。
伊吉連博徳の書によると、「庚申の年の8月、百済がすっかり平定され、その後、9月12日に客の帰国を許可した。19日、西京を出発した。10月16日、東京まで帰り着いて、やっと阿利麻ら5人と会うことができた。11月1日に、将軍の蘇定方らに捕えられた百済王以下、太子隆ら諸王子13人、大佐平沙宅千福および国弁成以下37人、合せて50人ばかりの人が朝廷に進上すると、すぐさま天子の前に連れて行かれた。天子は恩勅を下して目前で放免した。19日、天子から慰労を受け、24日、東京を出発した」という。
九月己亥朔癸卯(9月5日)に、百済は達率(名を欠く)沙弥覚従らを派遣して来朝させた。或る本によると、百済から逃げて来て国難を告げたという。達率は「今年の7月、新羅は勢力に乗じて隣国との親交を断ち、唐人と策を通じて百済を滅亡させました。君臣をみな捕虜にし、残った者はほとんどおりません。」と奏上した。
或る本によると、今年の7月10日に、大唐の蘇定方は、船軍を率いて尾資の津に布陣した。新羅王春秋智は、兵馬を率いて怒受利の山に布陣した。こうして百済を挟み撃ちし、交戦すること3日で百済が王城を攻め落した。同月13日に、ついに王城は陥落した。怒受利山は百済の東境である」という。
また、「そして西部恩率である鬼室福信は烈火のごとく憤り、任射岐山(北任叙利山)に陣取り、達率余自進は中部久麻怒利城(都々岐留山)に陣取りました。それぞれ一か所に屯営し、離散した兵卒を呼び集めました。武器は先の戦で尽きてしまったため、ツカナギ(木の棒)で戦いました。新羅の軍兵が倒れると、百済はその武器を奪いました。こうして百済の武力は先鋭化し、唐も攻め入ろうとはしません。福信らはついに同国人を寄せ集め、共に王城を保っております。国民は尊敬して、『佐平福信、佐平自進』と呼びます。ひとえに福信が、霊妙で勇猛な威勢を発揮したことで、すでに滅びていた国を興したのです」と申し上げた。
挿絵:あんこ
文章:くさぶき
日本書紀「斉明天皇(8)」登場人物紹介
<道顕>
高麗の僧侶。
<鬼室福信>
義慈王の従兄弟。百済が唐・新羅の連合軍によって滅ぼされたが、その後も福信は故都泗沘城奪回のために奮闘した。