斉明天皇が牟婁温湯に行幸中、有間皇子は蘇我赤兄に謀反の決意を漏らす。
斉明天皇(5)
皇極天皇四年十一月庚辰朔壬午(11月3日)、留守官の蘇我赤兄臣は有間皇子にこう語った。
「天皇の政事には3つの過失があります。1つめは大きな倉庫を建てて民の財産を集積したこと。2つめは長い溝を掘って公の食糧を浪費したこと。3つめは舟に石を載せて運び、それを積んで丘にしたことです」
有間皇子は赤兄が自分に好意を示したことを知り、欣然として「私はこの年になってついに兵を挙げるときが来た」と答えた。
甲申(5日)、有間皇子は赤兄の家へ行き、楼に登って謀をめぐらせていると、脇息が自然に折れた。それが不吉な前兆だと判断して、2人は誓い合って謀を中止し、皇子は帰宅して寝た。この夜のうちに、赤兄は物部朴井連鮪を使者として遣わせ、宮殿造営の丁を率いて有間皇子を市経の家に囲ませ、すぐさま駅馬を使って天皇のもとに奏上した。
戊子(9日)、有間皇子と守君大石・坂合部連薬・塩屋連鯯魚を捕えて、紀温湯に護送した。舎人の新田部米麻呂がこれに随従した。
皇太子(中大兄皇子)は有間皇子に直接「なぜ謀反を起そうとしたのか」と尋ねた。有間皇子は「天と赤兄のみが知っています。私はなにも存じません」と答えた。
庚寅(11日)、丹比小沢連国襲を遣わせて、有間皇子を藤白坂で絞刑に処した。この日に、塩屋連鯯魚と舎人新田部連米麻呂を藤白坂で斬刑に処した。塩屋連鯯魚は刑に処される際、「どうか右手で国の宝器を作らせてほしい」と言った。守君大石は上毛野国に、坂合部薬は尾張国への流罪に処した。
或る本によると、有間皇子と蘇我臣赤兄・塩屋連小戈・守君大石・坂合部連薬は、短籍を取って謀反の吉凶を占卜したという。
また或る本によると、有間皇子は「まず宮殿を焼き、500人で1日2夜かけて牟婁津を遮り、すぐに船軍で淡路国を交通を断って牢獄のように封鎖すれば、事は容易に成功するだろう」と言った。するとある人が諫言して、「それはよくありません。計略はうまく運んでも、”徳”がありません。いま、皇子は御年やっと19で、まだ成人に達しておられません。成人になってこそ、その徳を備えることができるのです」と言った。他の日に、有間皇子と一人の判事とが謀反を企てていると、皇子の脇息の脚がわけもなく自然に折れた。しかしその謀は中止せず、ついに誅殺されたという。
挿絵:茶蕗
文章:くさぶき
日本書紀「斉明天皇(5)」登場人物紹介
<有間皇子>
孝徳天皇の息子。
<蘇我赤兄>
蘇我馬子の孫で、蘇我倉山田石川麻呂の弟。