孫の建皇子が薨去し、天皇は嘆き悲しむ。
斉明天皇(4)
皇極天皇4年5月、皇孫である建王が8歳で薨去した。今城谷の辺りに殯をつくって納めた。天皇は、皇孫が生まれつき節度があってうつくしかったため、大切にしていた。そのため哀傷し慟哭すること甚だしかった。群臣に詔して、「私の死後は、必ず我が陵に健王を合葬せよ」といった。そうしてこのように歌を詠まれた。
今城なる 小丘が上に 雲だにも 著くし立たば 何か歎かむ
(今城の小丘の上に、せめて雲だけでもはっきりと立ったのなら、どうしてこれほど嘆こうか(其の一))
射ゆ鹿猪を 認ぐ川上の 若草の 若くありきと 吾が思はなくに
(射られた鹿猪を追って足跡をたどる、その川辺に生える若草のように、若く幼かったとは私は思わないのに(其の二))
飛鳥川 漲らひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも
(飛鳥川が溢れるように盛り上がって流れゆくその水のように、絶え間なく思われてならないことだ(其の三))
天皇は折々にこれらを口ずさんで嘆き悲しんだ。
秋七月辛巳朔甲申(7月4日)、蝦夷200人余りが朝廷に参上して物を献上した。天皇はいつもに増して厚く饗応し、多くの賜物があった。そうして柵養の蝦夷2人に位一階、渟代郡の大領沙尼具那に小乙下(ある本によると、位二階を授けて戸口を調査させたという)、少領宇婆左に建武、勇猛な者2人に位一階を授けた。そして沙尼具那らに、鮹旗20頭・鼓2面・弓矢2具・鎧2領が下賜された。津軽郡の大領馬武に大乙上、少領青蒜に小乙下、勇猛な者2人に位一階を授けた。別に馬武らに鮹旗20頭・鼓2面・弓矢2具・鎧2領が下賜された。都岐沙羅の柵造(名を欠く)に位二階、判官に位一階を授けた。渟足の柵造大伴君稲積に小乙下を授けた。また渟代郡の大領沙尼具那に詔して、蝦夷の戸口と捕虜の戸口を詳しく調べさせた。
この月に、僧智通と智達は勅を受けて、新羅の船に乗って大唐国に行き、無性衆生義(大乗法相宗)を玄奘法師のもとで修めた。
冬十月庚戌朔甲子(10月15日)、天皇は紀温湯に行幸した。天皇は皇孫建王を思い出し、傷心悲泣してこう口ずさんだ。
山越えて 海渡るとも おもしろき 今城の内は 忘らゆましじ
(山を越えて海を渡っても、楽しかった今城の地(建王のゆかりの地)のことは、決して忘れられないであろう(其の一))
水門の 潮のくだり 海くだり 後も暗に 置きてか行かむ
(川口から潮流に乗って海路を下って行く。後のことが気がかりで、暗い気持のまま(建王を)残し置いて下って行くのであろうか(其の二))
愛しき 吾が若き子を 置きてか行かむ
(いとしい私の幼な子を、後に残して行くのであろうか(其の三))
そして秦大蔵造万里に詔して、「この歌を後世に伝えて、決して忘れさせてはならない」といった。
挿絵:あんこ
文章:くさぶき
日本書紀「斉明天皇(4)」登場人物紹介
<建皇子>
中大兄皇子の子。