刻々と近づく皇位継承問題から逃れるべく、有間皇子はある作戦を決行する。
斉明天皇(3)
九月、有間皇子は聡明さを以てわざと正気を失った人のように振舞っていた、という。牟婁温湯(むろのゆ、和歌山にある温泉)に行って療養を偽り、その地から戻ってくると国(ここでは温泉地帯を指す)の様子を褒め称えて次のように言ったという。
「ほんの少しではあれど、彼の地を眺めていると自然に病が消えてしまった」
天皇はその報を聞いて喜び、そこへ行って景色を見てみたいと思った。
この年、使いの者どもを新羅に向かわせ、次のように伝えた。
「沙門智達(ほうしちだち)、間人連御廐(はしひとのむらじみうやま)、依網連稚子(よさみのむらじわくご)等を連れ、汝の国の使いに具して大唐(もろこし、唐)に送り、到着させたいと考えている」
新羅は、これを聞き入れず、使いも送らなかった。このような経緯で沙門智達等は帰還した。西海(にしのみち)の使いである小花下(しょうかげ)の阿曇連頰垂(あずみのむらじつらたり)、小山下(しょうせんげ)の津臣傴僂(つのおみくつま)[傴僂、これを倶豆磨(くつま)という]、いずれも自ら百済より帰還して、駱駝(ラクダ)を1頭、ロバを2頭献上した。石見国(いわみのくに)は「白狐を見た」と言った。
即位して四年の春、正月は十三日、左大臣の巨勢徳太臣(こせのとこだのおみ)が亡くなった。夏の四月(新暦の梅雨前後)、阿陪臣(あへのおみ)[名は不明]が船師(ふないくさ)180もの船を率いて蝦夷を征伐し、齶田(あぎた、今の秋田県秋田市)と渟代(ぬしろ、今の秋田県能代市)の2郡の蝦夷は、遠くから偵察してこれを恐れたので降伏してきた。これを受け、軍を整えて船を齶田浦(あぎたのうら)に留めさせると、齶田の蝦夷の恩荷(おが)という者が進み出て次のように誓って言ったという。
「官軍と戦うために弓矢を持っているのではなく、我々の常としては獣肉を食べるために弓矢を持っている。もし官軍のために弓矢を携えるとすれば、齶田浦の神は気持ちを汲んでくれるだろう。まさに穢れのない清らかな心で朝廷に仕官致そう」
恩荷に小乙上(しょうおつじょう)を授け、渟代(ぬしろ)と津軽(つがる)の2郡の郡領(こおりのみやつこ)を定めた。その後は有間浜(ありまのはま)に赴き、遠方の島の蝦夷等を招集して、大規模な宴を催して帰還した。
挿絵:やっち
文章:松
日本書紀「斉明天皇(3)」登場人物紹介
<有間皇子>
飛鳥時代の皇族。孝徳天皇の子で、聡明な人物。