斉明天皇は大規模な土木工事を好んだため、人民から非難された。
この年、新たに飛鳥の岡本を宮殿の場所に定めた。この時、高麗・百済・新羅が揃って使者を遣わして朝貢した。このため、この宮地に柱を立て、紺色の陣幕を張って仮屋を設けて使者を饗応した。
ついに宮殿の建物が完成した。天皇はすぐに新居にお移りになり、この宮を後飛鳥岡本宮と名付けた。
田身嶺(多武峰)の頂上にぐるりと垣根を巡らせた(「田見」とは山の名前である。「タム」と読む)。また、嶺の上の二本の槻の木のそばに物見の楼を建てさせ、名付けて両槻宮とし、または天宮とも称した。
天皇は事業を起こすことを好まれ、水工に溝を掘らせ、それは香久山の西から石上山に至った。舟二百隻に石上山の石を積み、水の流れに乗せて宮殿の東の山まで引き運び、その石を重ねて石垣をつくらせた。当時の人々はこれを誹謗して「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)である。この溝をつくるために費やされた人夫の数は延べ三万人余り、石垣を築くのに費やされた人夫の数は延べ七万人余り。宮殿を造るための材料は腐り、山頂は埋もれてしまった」と言った。
さらに「石の山丘をつくっても、つくったそばから自ずから崩れてゆく」と罵った(思うに、これはまだ工事が終わる前にこの誹謗中傷が為されたのであろうか)。また、吉野宮を造営した。
西海使(遣百済使)の佐伯栲縄(位階不明)と小山下(第十九冠位の十四番目)の難波吉士国勝らが百済から帰国して鸚鵡一羽を献上した。また、岡本宮が火災に遭った。
斉明天皇三年の秋七月の三日に「私たちははじめ海見島に漂着しました」と言っていた、筑紫に漂着した覩貨邏国の男二人と女四人を駅馬を以てただちに召した。
十五日に須弥山の像を飛鳥寺の西に作り、また、盂蘭盆会を催した。
この年の暮れに覩貨邏人を饗応した(ある本には堕羅人とある)。
挿絵:茶蕗
文章:水月
日本書紀「斉明天皇(2)」登場人物紹介
<斉明天皇>
第35・37代天皇。舒明天皇の妃で天智天皇らの母。