蘇我石川麻呂は、異母弟の日向によって謀反を讒言される。


 大化5年三月乙巳朔辛酉(649年3月17日)、阿倍大臣(阿倍倉梯麻呂)が亡くなった。天皇は朱雀門に出て、挙哀(死者をまつるために哭泣する礼)して大そう嘆いた。皇祖母尊・皇太子たちと諸々の公卿は、ことごとくこれに従って哀哭した。
 戊辰(24日)に、蘇我臣日向(日向は字は身刺という)は倉山田大臣(蘇我石川麻呂)について皇太子に、「私の異母兄の麻呂は、皇太子が海浜でお遊になるところを狙って殺害しようとしています。遠からず謀反を起こすことでしょう」と讒言した。皇太子はその言葉を信じた。
 天皇は大伴狛連、三国麻呂公、穂積噛臣を蘇我倉山田麻呂大臣のところに遣わせて、謀反の虚実を問うた。大臣は、「ご質問の返答は、私が天皇の御前で直に申し述べましょう」と答えた。天皇は再び三国麻呂公と穂積噛臣を遣わせて、謀反の実状を審らかにしたが、麻呂大臣はまた同じように答えた。
 そこで天皇は軍兵を起こして、大臣の邸宅を包囲しようとした。すると大臣は二子、法師と赤猪(秦ともいう)を連れて、茅渟道から倭国の境に逃げていった。
 大臣の長子興志は以前から倭にいて(山田の家にいたことをいう)、そこで山田寺を造営していたが、ここに突然父が逃げてくると聞いて、今来の大槻のもとへ迎えに行き、先導して寺に入った。そうして大臣を顧みて、「この興志自ら進軍して、追ってくる軍勢を迎え撃ちたいと思います」と言ったが、大臣は許さなかった。この夜、興志は心中ひそかに宮(小墾田宮)を焼こうと思い、兵士を集めた。
 己巳(二十五日)に、大臣は長子の興志に、「お前は自分の身が惜しいか」と言った。興志は、「惜しくはありません」と答えた。大臣は、山田寺の僧衆と興志と、数十人に陳説して、
「そもそも人臣たる者が、どうして君に謀反など企てようか。どうして父への孝を失おうか。およそこの伽藍は、もともと私自身のために造ったのではない。天皇のために誓願して造ったものである。今、私は身刺に讒言されて不当に誅殺されるのを恐れている。願わくば、黄泉へは変わらぬ忠誠心を抱いてまかりたいと思う。寺に来た所以は、終焉の時を安らかに迎えたいからだ」と言った。
 言い終ると、仏殿の戸を開き、「私は未来永劫にわたって君主をお怨みいたしません」と誓いを立てた。誓い終わると自ら首をくくって死んだ。妻子の殉死者は8人だった。

 この日に、大伴狛連と蘇我日向臣を将軍として、軍衆を率いて大臣を追わせた。将軍大伴連たちが黒山まで来ると、土師連身と采女臣使主麻呂が山田寺から馳せきて、「蘇我大臣はすでに三男一女とともに自ら首をくくって死にました」と報告した。そこで将軍たちは丹比坂から引き返した。
 庚午(26日)、山田大臣の妻子及び従者で、自ら首をくくって死ぬ者が多かった。穂積臣噛は大臣の党類の田口臣筑紫らを捕えて集め、首枷をつけて後ろ手に縛った。
 この日の夕べに、木臣麻呂、蘇我臣日向、穂積臣噛は寺を軍衆で囲んだ。物部二田造塩を呼んで大臣の首を斬らせた。ここで二田塩は、大刀を抜いてその死体を刺し挙げて、大声で叫び、斬刑を執行した。
 甲戌(30日)、蘇我山田臣に連坐して殺された者は、田口臣筑紫・耳梨道徳・高田醜(醜はここではシコという)雄・額田部湯坐連(名を欠く)・秦吾寺ら、合計14人、絞刑に処せられた者は9人、流刑に処せられた者は15人であった。
 この月に、使者を遣わせて山田大臣の資財を没収した。資財の中に、良書の上には皇太子の書と記し、重宝の上には皇太子の物と記してあった。使者が帰って没収した資財の状態を報告すると、初めて皇太子は大臣の心が貞しく清かったことを知り、後悔し恥じ入って、休むことなく嘆き悲しんだ。そして日向臣を筑紫大宰帥に任用した。世の人は語らって、「これは隠流か」と言った。
 皇太子の妃である蘇我造媛は、父の大臣が二田塩に斬られたと聞いて、傷心して悲しみ嘆いた。そうして塩の名を耳にするのも嫌った。このため造媛に近侍する者は、塩の名を口にするのを忌んで、堅塩(きたし)と呼称を改めた。
 造媛は傷心のあまり、ついには死に至った。皇太子は造媛が亡くなったことを聞くと、愴然し哀泣した。ここに野中川原史満が進み出て歌を奉った。
 山川に 鴛鴦二つ居て 偶ひよく 偶へる妹を 誰か率にけむ
(山川に鴛鴦が2羽いて仲睦まじく連れ添っているが、そのように連れ添っていた妻を、いったい誰が連れ去ったのだろうか)
 本毎に 花は咲けども 何とかも 愛し妹が また先出来ぬ
(株ごとに花が咲いているのに、どうして愛しい妻は、再び現れては来ないのだろう)
 皇太子は嘆き頽れ、歌を褒めて、「善い歌だなあ、悲しい歌だなあ」といい、さっそく御琴を授けて唱和させ、絹四疋・布二十端・綿二褁を下賜した。
 夏四月乙卯朔甲午(4月20日)に、小紫巨勢徳陀古臣に大紫を授けて左大臣とし、小紫大伴長徳連(名は馬飼)に大紫を授けて右大臣とした。
 五月の癸卯朔(5月1日)、小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂らを新羅に派遣した。
 この年に、新羅王は沙㖨部沙飡金多遂を派遣して人質とした。従者は37人であった。僧1人、侍郎2人、丞1人、達官郎1人、中客5人、才伎10人、訳語1人、種々の従者16人、合わせて37人である。


挿絵:茶蕗
文章:くさぶき


日本書紀「孝徳天皇(4)」登場人物紹介

<阿倍倉梯麻呂>
孝徳朝の左大臣。孝徳天皇に娘の小足媛を、中大兄皇子に橘娘を嫁がせている。
<蘇我石川麻呂>
孝徳朝の右大臣。孝徳天皇に乳娘を、中大兄皇子に造媛(遠智娘)と姪娘を嫁がせている。
<蘇我日向>
蘇我石川麻呂の異母弟。