大化元年9月、古人大兄皇子が謀反を企てていると密告がある。


 大化元年九月丙寅朔(9月1日)、天皇は使者を諸国に派遣して、武器を収めさせた。ある本によると、6月から9月まで、使者を四方の国に派遣して、種々の武器を集めさせたという。
 戊辰(3日)、古人皇子が、蘇我田口臣川堀・物部朴井連椎子・吉備笠臣垂(「垂」はここではシダルという)・倭漢文直麻呂・朴市秦造田来津と謀反を起こした。古人皇子はある本によると古人太子といい、またある本によると、古人大兄という。あるいは吉野山に入ったため、吉野太子という。
 丁丑(12日)、吉備笠臣垂は中大兄に自首して、「吉野の古人皇子は、蘇我田口臣川堀らとともに謀反を企てております。私もその仲間に加わりました」と発言した。

 ある本によると、吉備笠臣垂は阿倍倉梯麻呂大臣と蘇我山田石川麻呂大臣に、「私は吉野皇子の謀反の仲間に加わりました。それゆえこうして自首いたしました」と発言したという。
 中大兄は菟田朴室古と高麗宮知に命じ、若干の兵士を率いて古人大兄皇子を討たせた。ある本によると、11月30日、中大兄は阿倍渠曾倍臣と佐伯部子麻呂の2人に命じて、兵士30人を率いて古人大兄に攻め込み、古人大兄とその子を斬らせた。妃妾は自ら首をくくって死んだという。ある本によると、11月に吉野大兄王が謀反を企て、事が発覚して誅殺されたという。
 甲申(19日)、天皇は諸国に使者を派遣して、民の総数を記録させた。
「古より、天皇の御世ごとに名代の民を置いて、後世にその名を伝えた。臣・連たち、伴造・国造は、それぞれ自分の民を置いてほしいままに使い、また国県の山海・林野・池田を割いて自分の財産とし、争いや戦いは止むことがない。ある者は数万頃の田を併せ持ち、ある者は針を刺すほどの土地もまったく持っていない。調賦を進上する際に、その臣・連・伴造らは、まず自らの分を収め取り、その後に分けて進上する。宮殿の修理や墓陵の築造の際には、それぞれ自分の民を連れて来て、事に応じて作業するのである。易に『上に損じて下を益す。制度に定めて守らせるなら、財を失うことなく、民を傷めつけることもない』という。今なお人民は貧しいというのに、勢力のある者は田畑を分割して私有地とし、人民に貸し与えて、毎年その地代を取っている。今後は土地を貸してはならない。勝手に主人となって弱小の者を支配してはならない」と詔した。人民はたいそう喜んだ。
 冬十二月乙未朔癸卯(12月9日)、天皇は難波長柄豊碕に遷都された。老人たちは「春から夏まで、鼠が難波に向ったのは、遷都の前兆であったのだ」語り合った。
 戊午(12月24日)、越国が「海岸に浮んでいた枯木が東に向って流れて行きました。砂の上に跡があり、田を耕した跡のようでした」と言った。この年、太歳は乙巳であった。


挿絵:あんこ
文章:くさぶき


日本書紀「孝徳天皇(3)」登場人物紹介

<中大兄皇子>
舒明天皇の子。孝徳天皇代の皇太子。
<古人皇子>
舒明天皇の子。中大兄皇子の異母兄。