夫の訃報を受け、夜の海に身投げした小宰相。人々は懸命に探して引き上げるが……。


一の谷より屋島へ渡る夜半ばかりのことなので、舟の中は静まりかえっており、人は誰もこれを知らなかった。その中に梶取りの一人が寝ずにいたが、これを見つけ申して、
「あれはどうしたことか!あの御舟から、世にも美しゅうまします女房が、たった今、海へお入りになられたぞ!」
と叫んだので、乳母の女房、はっと目覚め、傍を探したがいらっしゃらないので「そんな、まさか」と驚き途方に暮れていた。人あまた海に降りて引き上げ奉らんとしたが、さらぬだに春の夜は常時霞むものなので、四方の群雲(むらくも)が浮き出てきて、潜れども潜れども、月の光も朧気で見えなかった。ややあって、漸く引き上げ申したものの、すでに、この世に亡き人となられていた。練貫の二衣に白の袴をお着けになっていた。髪も袴も海水に濡れ、舟に引き上げたものの、その甲斐はなかった。乳母の女房、手に手を取り、顔に顔を押し当てて、
「なぜ、どうしてこれ程までに御決意なさるならば、千尋の底までもお連れ下さらなかったのですか。それはそれとしてもう一度、もう一言何かお言葉を仰って、お聞かせください」

と身悶えして恋焦がれたけれども、一言の返事もない。わずかに通っていた息も、すぐに絶え果ててしまった。
そうするうちに春の夜の月も雲居に傾き、霞んでいた空も明けてきたので、名残は尽きせずと思えども、このままにしておくわけにもいかない。海の底から浮き上がられてはと、故三位殿の大鎧が一領残っていたので、亡骸をお包み申して、遂に海に沈めた。乳母の女房は、今度は後れ申すまいと、続いて入水しようとしたが、人々がようように引き留めたので、身投げはできなかった。せめてもの遣り切れなさからか、自ら髪を切り、古三位殿の弟である中納言律師忠快に残りの髪を剃らせ申して、泣く泣く戒を受け、主君の後世を弔ったのだった。
昔から、男に死に後れる類の話は多いとはいえど、出家が常の習わしであり、身を投げるのは数少ない例である。忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫にまみえずと云うが、それらはこのようなことを申すのであろう。
この女房と申すのは、頭の刑部卿藤原憲方の娘であり、上西門院に女房として仕えていた。宮中一の美人と称され、名を小宰相殿と申した。この女房が十六歳と申した安元(1179年か)の春の頃、女院が法勝寺へ花見の御幸を行った折に、通盛卿、その時はまだ中宮の亮としてお供申していらっしゃったが、この女房をただ一目見て愛しいと思い始めてから、その面影ばかりが身にひしっと立ち添い、片時も忘れられなかったので、はじめは歌を詠み文をしたため続けたが、玉章の数ばかりが積もって、そのお気持ちが届くこともなかった。
すでに三年の月日が流れ、通盛卿は、この度を最後とする文を書いて、小宰相殿のもとへ使いの者をお送りになる。その時は、取次をしていた女房にも会えず、使者は空しさと共にもと来た道を引き返していたが、小宰相殿はその頃、自身の親の邸宅から御所へ参上なさるところであった。使いの者は、このまま何もなく帰り申すことの不本意さに、御車のそばをサッと走り通るようにして、通盛卿の文を小宰相殿の車の簾の中に投げ入れた。(小宰相殿が手紙を投げ入れた人について)お供の者共にお尋ねなさったが「存じません」と申す。そこで、この文を開いてご覧になると、通盛卿からの文であった。車に置くわけにもいかない。大路に捨てるのもさすがに悪いので、袴の腰に文を挟み、御所へ参上なさった。
さて、宮仕えをしておられる最中に、場面は幾らでもあったというのに、御前のそばで文を落としてしまわれた。女院は、文が落ちているのを御覧になって、急いでお取りになると、御衣の御袂にお隠しになって「珍しい物を手に入れました。この持ち主は誰であろうか」と仰れば、御前の女房たちは、よろずの神仏に誓って「存じ上げません」とばかり申しあった。その中で小宰相殿は顔を紅潮させ、何も申されない。女院も、通盛卿の申すことは、かねてよりご存じであったので、それではとこの文を開けてご覧になると、妓女が炉で焚いた香の匂いに思いのほか心惹かれ、また筆跡も並外れていて「あまりにも人心の気が強いのも、むしろ今は嬉しくて」などと事細かに綴られており、最後には一首の歌が添えてあった。
我意は細谷川のまろ木橋 ふみかへされて濡るる袖かな
(私の思いは細い谷川の丸木橋。足で踏み返されて水に濡れるように、あなたに文を送り返されて袖が涙で濡れています)
女院はこれを見て「これは会わぬことを恨んだ手紙のようですね。あまりに頑固すぎるのも、かえって良くありませんよ」と仰った。
一昔前、小野小町とて、見目麗しく、歌を詠む才能に恵まれていたので、見る人、聞く人、心を悩まさずということはなかった。けれども、気が強いという噂が取り沙汰されたからであろう、ついには人の思いが積もりに積もり、風を防ぐ壁もなく、雨を濡らさぬ屋根もなし。朽ちた家に降り注ぐ月星の光に涙を浮かべ、野辺の若菜や沢の根芹を摘みながら、露のように儚く晩年を過ごしたという。
女院は「これは是非とも返事を書くべきですよ」と言って、恐れ多くも御硯を取り寄せて、女院自ら御返事をお書きになった。
ただ頼め細谷川のまろ木橋 ふみかへしては落ちざらめやは
(ただ信じてください。細い谷川の丸木橋を踏み返しては落ちないことがありましょうか。私は、あなたとの恋に落ちたのです)
(返事を受け)胸の内の思いは富士の煙のように立ち昇り、袖の上の涙は清見が関の波のようである。見目は幸の花、非常に美しく、三位はこの女房をお迎えし、互いの情は決して浅からず。それ故に西海の旅の空、舟の中、波の上の住まいにまで引き連れて、遂に同じ極楽浄土の道へと赴かれたのであった。
門脇の中納言平教盛は、嫡子越前の三位、そして末子業盛にも死に後れなさった。今、お頼りになる人としては能登守教経と、僧では中納言の律師忠快のみである。故三位殿の形見ともこの女房を御覧になっていたのだが、その方でさえこのような結末になられたので、より一層心細くなられた。


挿絵:やっち
文章:松(まつ)


平家物語「小宰相身投げ(後)」登場人物紹介

<小宰相>
平安時代末期の女房。平通盛の妻であり、美人であった。
<平通盛>
平安時代末期の武将。作中では生前、小宰相の妊娠を知って喜んだという。