孝徳天皇が即位し、元号を大化とする。
この日に、号を豊財天皇(皇極天皇)に奉って皇祖母尊とし、中大兄を皇太子とした。阿倍内麻呂臣を左大臣とし、蘇我倉山田石川麻呂臣を右大臣とした。中臣鎌子連に大錦冠を授けて内臣とし、封を若干戸増やした、云々。中臣鎌子連は忠誠心があり、宰臣としての威勢によって官司の上に立った。そのため進退廃置の計は支持され、事は成った、云々。僧旻法師と高向史玄理を国博士とした。
辛亥(645年6月15日)に、金策(黄金作りの札)を阿倍倉梯麻呂大臣と蘇我山田石川麻呂大臣に下賜した。ある本によると、練金(金属を溶かして練り鍛えて作った黄金)を下賜したという。
乙卯(19日)、天皇、皇祖母尊、そして皇太子は大槻の木の下に群臣を召集し、盟約を結ばせた。天神地祇にこう告げた。
「天は覆い、地は載す。帝道はただ一つである。しかし末代澆薄にして、君臣は秩序を失った。天は我の手を借りて、暴逆の徒を誅滅した。今ここに心血を注ぎ共に盟う。今後、君は二政を行わず、臣は朝廷に二心を持たない。もしこの盟約に背けば、天は災(わざわい)し地は妖(わざわい)し、鬼神や人は誅伐する。これは日月のごとく明白である」
天豊財重日足姫天皇四年(皇極天皇4年)を改めて、大化元年とした。
大化元年秋七月丁卯朔戊辰(645年7月2日)、息長足日広額天皇(舒明天皇)の娘である間人皇女を皇后とし、二人の妃を立てた。はじめの妃は阿倍倉梯麻呂大臣の娘で小足媛といい、有間皇子を生んだ。次の妃は蘇我山田石川麻呂大臣の娘で乳娘という。
丙子(10日)に、高麗・百済・新羅が共に使者を派遣して朝貢した。百済の調使は任那の使いを兼ねており、任那の調を進上した。ただし百済の大使である佐平縁福だけは、病気になり津の館に留まって京に入らなかった。
巨勢徳太臣は高麗の使者に詔を告げて、「明神御宇日本天皇(現天皇)のお言葉があり、『天皇と高麗の神の子との使者のやりとりは、歴史は浅いが将来長く続くであろう。それゆえ温和な心でもって相継いで往来せよ』と仰せられた」と言った。
また、百済の使者に詔を告げ、「明神御宇日本天皇のお言葉があり、『遥か昔の我が皇祖の世に、初めて百済国を内官家とされた時は、例えば三本でくくった綱のように強固であった。中頃は、任那国を百済に属国として与えられた。後には、三輪栗隈君東人を遣わせて、任那国の境界を視察させた。よって百済王は勅に従って、その境界をすべて見せていた。ところが今回の調には不足があったため、これを返却する。任那の貢物は、天皇がしっかりとご覧になる。今後はつぶさに国名と貢上する調の品名とを記せ。なんじ佐平らは同じ顔ぶれで再度来朝して、早急にはっきり返答せよ。今、三輪君東人と馬飼造(名を欠く)を重ねて遣わせる』と仰せられた」と言った。また勅があり、「鬼部達率意斯の妻子たちを人質として差し出せ」と言った。
戊寅(12日)、天皇は阿倍倉梯万侶大臣と蘇我石川万侶大臣に詔して、「上古の聖王の功績を遵守して天下を治めよう。また、信義をもって天下を治めよう」と言った。
己卯(13日)、天皇は阿倍倉梯麻呂大臣と蘇我石川万侶大臣に詔して、「大夫と諸々の伴造たちにそれぞれ、民が喜んで働くための方法を尋ねよ」と言った。
庚辰(14日)、蘇我石川麻呂大臣は奏上して、「まず天神地祇を祭り鎮め、その後に政事をはかるのがよろしいと存じます」と申しあげた。この日に、倭漢直比羅夫を尾張国に、忌部首子麻呂を美濃国に遣わして、神に供える幣を課した。
挿絵:あんこ
文章:くさぶき
日本書紀「孝徳天皇(2)」登場人物紹介
<阿倍倉梯麻呂>
孝徳天皇の代の左大臣。
<蘇我石川麻呂>
蘇我馬子の孫で、倉麻呂の子。孝徳天皇の代の右大臣。
<巨勢徳太>
皇極天皇の御代、蘇我入鹿に従って山背大兄王を襲撃。のちに孝徳、斉明両天皇に仕えた。