一の谷・生田の戦いで一番乗りをした河原兄弟の戦死の報を聞き、梶原景時は息子達と共に敵陣へ駆ける。が、その途中、息子の景季の姿が見当たらないことに気づく。


 そうするうちに、成田五郎も出てきた。土肥次郎実平は真っ先に駆けてその軍勢七千余騎の色々の軍旗を掲げ、喚き叫んで攻め戦う。大手生田の森も源氏五万余騎で固めていたが、その軍勢の中に武蔵国の住人、河原太郎高直、河原次郎盛直という者がいた。
 河原太郎は弟の次郎を呼んで言うことには、
「大名は自ら手を下さずとも家人の武功をもって自分の名誉とする。しかし、我々は自ら手を下さねばそれはかなわない。敵を前にしながら矢の一つも射ずに待っているが、あまりにもどかしく思うので、高直はまず城の内へ紛れ入って一矢を射ようと思う。そうすれば千万にひとつも生きて帰ることはないであろう。おまえは残り留まって、恩賞を受けるときの証人となれ」
 そう言うと、河原次郎ははらはらと涙を流して、
「残念なことを仰るものだ。たった二人の兄弟なのに、兄を討たせて弟が一人残り留まったとて、幾程の栄華を得られるというのですか。ばらばらのところで討たれるよりも、一所で共に死にましょう」
 そう言って、下人どもを呼び寄せ、最後の有様を妻子のもとへ伝えるように命じ、馬にも乗らずに藁草履を履き、弓を杖にして生田の森の逆茂木を登り越え、城の内に入った。星明りで鎧の毛の色もさだかではない。
 河原太郎は大音声をあげて、
「武蔵国の住人、河原太郎私市高直、同じく次郎盛直、源氏の大手生田の森の先陣ぞや」
 と名乗りを上げた。
 平家方はこれを聞いて、
「東国の武士ほど恐ろしいものはない。これほどの大勢の中へただ二人入ったとて、何程のことができようか。よしよし、しばし可愛がってやれ」
 と言って、討とうとする者はいなかった。しかし、この兄弟は究竟の弓の上手であったので、矢を次々につがえては引き、つがえては引き、散々に射るので「憎し、討てや」と言うほどに、西国にきこえた強弓精兵である備中国の住人、真名辺四郎、真名辺五郎という兄弟があった。四郎は一の谷に置かれていた。五郎は生田の森にいたのだが、この河原兄弟を見て弓を引いてひょうっと射る。河原太郎の鎧の胸板が後ろへつっと射抜かれて、彼が弓を杖にして縋り、動けなくなったところに弟の次郎が走り寄って兄を肩に担ぎ上げ、逆茂木を登り越えようとするが、真名辺の二の矢に鎧の草摺の間を射られて兄と共に倒れ伏した。真名辺の下人がやって来て河原兄弟の首をとった。
 これを新中納言平知盛のお目にかけると、
「あっぱれ剛の者であることよ。この者達こそ一人当千の兵というべきである。このような者共を助けないとは」
 と仰った。
 そのとき源氏方では、下人どもが
「河原殿ご兄弟が只今城の内へ一番乗りをしてお討たれになりました」
 と叫んだので、梶原平三景時はこれを聞いて、
「私市の党の殿ばらの不覚によって河原兄弟は討たれたのだ。今が良い時ぞ。攻め寄せろ」
 と言って、鬨の声をどっと上げさせた。すぐに続けて五万余騎が一度に鬨の声を上げた。
 足軽どもに逆茂木を取り除けさせ、梶原五百余騎が気勢を上げて駆ける。景時の次男、平次景高が余りに先駆けをしようと進むので、父の平三景時は使者を立てて、
「後陣の軍勢が続いていないのに先駆けをするような者には褒賞はないとの大将軍の仰せであるぞ」
 と伝えさせたところ、平次はしばし馬を止めて、
「『もののふの とりつたえたる あづさ弓 ひいては人の かへすものかは(もののふたる者、先祖より伝わる梓弓を引いた以上はその弓がもう戻らないように、一旦進んだ以上どうして戻ることがあろうか)』と申し伝えてください」
 そう言って、気勢を上げて駆けていった。
「平次を討たすな、続け者ども、景高を討たすな、続け者ども」
 と言って、父の平三景時、兄の源太景季、同じく三郎景茂が続いた。
 梶原五百余騎は大軍勢の中へ駆け入り、さんざんに戦ってわずかに五十騎ばかりとなり、さっと退いて敵陣から出た。どうしたことか、その中に景季の姿が見えない。
「どうしたのだ源太は、郎党ども」
 と問うと、
「深入りしてお討たれになったのでございましょう」
 と言う。梶原平三景時はこれを聞き、
「この世に在ろうと思うのも子供達のためだ。源太を討たせて命が助かっても何になろうか。引き返すぞ」
 と言って取って返す。
 景時が大音声を上げて名乗ることには、
「昔八幡太郎源義家公が後三年の役で出羽国千福金沢の城を攻められたとき、生年十六で先陣を駆け、左の目を甲の鉢付の板に射つけられながらも返しの矢を射てその敵を射落とし、後代に名を上げた鎌倉権五郎景正が末裔、梶原平三景時、一人当千の兵ぞ。我こそはと思う者はこの景時を討って大将のお目にかけるがよい」
 と言って、気勢を上げて駆ける。
「梶原は東国に聞こえた兵であるぞ。余すな、もらすな、討て」
 新中納言平知盛はそう言って、大軍勢の中に取り籠めて攻めさせると、景時は我が身も顧みず源太はどこにいるのだと数万騎の大軍勢の中を縦に横に蜘手に十文字に駆け回り探した。源太は甲が後ろにずり落ちたまま、乗ってきた馬も射られて徒歩になり、二丈ほどある崖を背にして敵五人の中に取り籠められ、郎党二人を左右に立てて脇目も振らず命も惜しまず、ここを最後と防ぎ戦っていた。
 景時はこれを見つけて、まだ討たれていなかった、と急ぎ馬から飛び降り、
「父はここにいるぞ。どうした源太、たとえ死んでも敵に背中を見せるな」
 と言って、親子で五人の敵のうち三人を討ち取り、二人に手傷を負わせ、
「弓矢を取る者は進むも退くもその折によるものだ。さあ源太」
 そう言って、源太を自分の馬に担ぎ上げて一緒に敵陣を出た。
 梶原の「二度の懸け」とはこのことである。


挿絵:黒嵜
文章:水月


平家物語「二度之懸」登場人物紹介

<河原太郎高直・次郎盛直>
源氏方の武士で武蔵国の住人。
<梶原景時>
源氏方の武将。
<梶原景季・景高・景茂>
景時の息子。