剣池の蓮が一本の茎に二つのがくをつけ、これは蘇我氏繁栄の瑞兆であると蘇我蝦夷は解釈する。
皇極天皇三年三月(644年3月)、休留(いいどよ。ふくろうを指す)ーー休留は茅鴟(ぼうし)であるーーが、豊浦大臣(蘇我蝦夷)の大津の家の倉に子を産んだ。
倭国が、「このごろ、菟田郡の人押坂直(名を欠く)が一人の子どもを連れて雪の上で戯れ、菟田山に登ったところ、紫色の茸が雪の中から顔を出して生えているのを見つけました。高さ六寸(18cm)余りで、四町(4万㎡)ばかりに群生していました。そこで押坂直は子どもに採取させ、帰って隣家に茸を見せましたが、皆は『知らない』と言い、また毒ではないかと疑いました。そこで押坂直と子どもはそれを煮て食べてみたところ、大そう芳しい味がしたそうです。翌日にその山へ行ってみると、紫色の茸はまったくありませんでした。押坂直と子どもは、茸の羹(あつもの)を食べたため、 病に罹らず長生きしました」と奏上した。
ある人が、「おそらくその土地の者は芝草(瑞草のひとつ)とは知らず、みだりに茸と呼んだのだろう」と言った。
夏六月癸卯朔(6月1日)、大伴馬飼連が百合の花を献上した。その百合は茎の長さが八尺(2.4m)あり、本は別で先は連なって連理になっていた。
乙巳(3日)、志紀上郡が、「ある者が三輪山で猿が昼寝をしているのを見て、こっそりとその腕を捉えて、その身は傷つけませんでした。猿はなおも眠ったままで歌を詠みました。
向つ峰に 立てる夫らが 柔手こそ 我が手を取らめ 誰が裂手 裂手そもや 我が手取らすもや
(向こうの山に立っているあの方の柔らかい手なら、私の手を取ってもよいが、いったい誰のひびわれた手が、ひどくひびわれた手が、私の手を取るのか)
その者は猿の歌を驚き怪しんで、手を放して立ち去りました。これは数年を経て、上宮の王たちが蘇我鞍作(蘇我入鹿)によって胆駒山で囲まれたことの前兆です」と奏上した。
戊申(6日)、剣池の蓮の中に、一本の茎に二つの萼(がく)のある蓮があった。豊浦大臣はみだりに推測して、「これは蘇我臣の将来の瑞兆である」と言って、金泥で記して大法興寺の丈六の仏(飛鳥寺の丈六釈迦像)に献じた。
この月に、国内の巫覡らは雑木の小枝を折り取って木綿を掛け垂して、大臣が橋を渡る時をうかがい、争って神託のたえなる言葉を述べた。巫覡の数がはなはだ多がったため、つぶさに聴き取ることはできなかった。老人らは、「時勢が変わる前兆である」と言った。そのころ、三首の謡歌があった。
その一に、遥々に 言そ聞ゆる 島の藪原(遥か遠くで話し声が聞える、島の藪原で)と言った。
その二に、遠方の 浅野の雉 響さず 我は寝しかど 人そ響す(遠くの浅野にいる雉は鳴きながら飛ぶが、私たちは音も立てずこっそりと寝たというのに、人々は騒ぎ立てる)と言った。
その三に、小林に 我を引入れて 奸し人の 面も知らず 家も知らずも(林の中に私を誘い入れて犯した人の、顔も知らず、家も知らない)と言った。
挿絵:あんこ
文章:くさぶき
日本書紀「皇極天皇(7)」登場人物紹介
<皇極天皇>
第35代天皇。先帝・舒明天皇の皇后。
<蘇我蝦夷>
舒明・皇極天皇代の大臣。