蘇我入鹿が斑鳩宮を襲撃させ、山背大兄王たちは宮を脱出する。
十一月丙子朔(11月1日)、蘇我臣入鹿は小徳巨勢徳太臣と大仁土師娑婆連を遣わせて、斑鳩の山背大兄王たちを襲撃した。ある本によると、巨勢徳太臣と倭馬飼首を将軍にしたという。そこで下男の三成と数十人の舎人が出て防戦した。土師娑婆連が矢に射られて死ぬと、軍衆は恐れて退却した。軍中の人は、「一人当千というのは三成のことをいうのだな」と語り合った。
山背大兄は馬の骨を取って寝室に投げ置き、人の見ていない隙に妃や一族を率いて逃げ出し、胆駒山に身を隠した。そこに三輪文屋君、舎人田目連とその娘、菟田諸石、そして伊勢阿部堅経が従った。
巨勢徳太臣らは斑鳩宮を焼き、灰の中に骨を見つけると、誤って山背大兄王を死なせてしまったと思い、包囲を解いて退却した。
こうして山背大兄王たちは4、5日の間、山に久しく留まったまま喫飯することもできずにいた。三輪文屋君が、「どうか深草屯倉に向かい、そこから馬に乗って東国へ行き、乳部を本拠として軍隊を起し、引き返して戦ってください。そうすれば勝利は間違いありません」と進言する。
山背大兄王たちは、「お前が言うとおり、きっと勝つであろう。しかし私は心の中で、十年は人民を使役するまいと思っている。私一人のためにどうして万民を苦しめ煩わせることができようか。また後世、私のせいで自分の父母を亡くしたなどと人民に言われたくはない。そもそも、なぜ戦いに勝った時にだけ丈夫と呼ばれるのか。身を捨てて国を固めることもまた丈夫ではないか」と答えた。
ある人が、遠くから山中に上宮の王たちの姿を見つけ、戻って蘇我臣入鹿に告げた。入鹿はそれを聞いて大そう恐れ、急いで軍隊を起こして、山背大兄王の居場所を高向臣国押に伝えて、「すみやかに山へ向い、かの王を捜し出して捕らえよ」と言った。国押は、「私は天皇の宮を守っておりますので、外へ出るわけには参りません」と答えた。
そこで入鹿は自ら向かおうとした。すると、古人大兄皇子が息を切らせて駆けつけて、「どこへ行くのか」と尋ねた。入鹿は詳しく事情を説明した。古人皇子は、「鼠は穴に隠れて生き、穴を失えば死ぬものだ」と言った。そこで入鹿は行くのを止め、軍将たちを遣って胆駒に上宮の王たちを捜させた。しかし、結局見つけることができなかった。
そうして山背大兄王たちは山から戻り、斑鳩寺に入った。そこへ軍将たちは寺を兵士で取り囲んだ。ここに山背大兄王は三輪文屋君に命じて軍将たちにこう語らせた。
「私が兵を起して入鹿を討伐すれば、勝つことは必定である。しかし私一身のために人民を死なせたくはない。従って我が身ひとつを入鹿に与えよう」
ついに一族、妃妾と共に自ら首をくくって死んだ。このとき五色の幡蓋が、種々の伎楽を伴って空に照り輝き、寺に垂れ下がった。衆人は仰ぎ見て称嘆し、入鹿にこれを指し示した。すると幡蓋等は黒雲に変じた。そのため入鹿はこれを見ることができなかった。
蘇我大臣蝦夷は、山背大兄王たちがみな入鹿に滅ぼされたと聞き、怒り罵って「ああ、入鹿は実に愚かで、横暴な悪事ばかり行ったものだ。お前の身命も危うくなるのではないか」と言った。
当時の人は、前の童謡の答えを解説して、「『岩の上に』は上宮を喩えている。『小猿』は林臣を喩えている(林臣は入鹿である)。『米焼く』は上宮を焼くことを喩えている。『米だにも 食げて通らせ 山羊の小父』は山背王の頭髪がまだらで乱れており、山羊に似ているので喩えたのだ」と言った。また、「山背王が宮を捨てて深山に隠れたことの先兆である」と言った。
この年に、百済の太子余豊が蜜蜂の巣四枚を、三輪山に放して養蜂した。しかし、結局繁殖しなかった。
挿絵:やっち
文章:くさぶき
日本書紀「皇極天皇(5)」登場人物紹介
<山背大兄王>
厩戸皇子の子。田村皇子と皇位を争って敗れた。
<蘇我入鹿>
蘇我蝦夷の子。蝦夷から紫冠を授けられ大臣の位に擬される。