蘇我蝦夷・入鹿は臣下としての分を超えたふるまいをするようになる。
この年(642年)に、蘇我大臣蝦夷は葛城の高宮に自分の祖廟を立てた。八佾の舞をし、最後にこのような歌を詠んた。
大和の 忍の広瀬を 渡るらむと 足結手作り 腰作らむと
(大和の忍海の川の広瀬を渡ろうと、足結を結び、腰帯を締めととのえることだ)
また、国中の民の併せて180の部曲(豪族の私有地)を徴発して、まだ生きているうちに双墓を今来という土地に造り、一つは大陵といって大臣の墓とし、もう一つは小陵といって入鹿臣の墓とした。死後に人を煩わせることのないようにと望んでのことである。
また、上宮(山背大兄王)の乳部の民をすべて集めて(「乳部」はここではミブという)、墓地の労役に使った。ここに上宮大娘姫王は憤慨し嘆いて、「蘇我臣は国政を欲しいままにして、多くの無礼をはたらいた。天に二つの太陽がないように、国に二人の王はいない。なぜ勝手にことごとく上宮の部民を使うのか」と言った。これより蘇我臣は恨みをかい、蝦夷と入鹿はついに滅ぼされた。この年、太歳は壬寅であった。
皇極天皇二年春正月壬子朔(643年1月1日)の朝、五色の大きな雲が天に満ちて空を覆ったが、東北東の空は途切れていた。青一色の霧が地表に立ちこめた。 辛酉(十日)に、大風が吹いた。
二月辛巳朔庚子(2月20日)、桃の花が初めて咲いた。乙巳(25日)、霰が降って草木の花や葉を傷めた。
この月に、風が吹き雷が鳴り氷雨が降った。冬の政令を行ったためである。国内の巫覡(かんなぎ)らは雑木の小枝を折り取って木綿を掛け垂して、大臣が橋を渡る時をうかがい、争って神託のたえなる言葉を陳述した。巫の数があまりに多かったため、すべてを聴き取ることはできなかった。
三月辛亥朔癸亥(3月13日)、百済の客が宿泊していた難波館と民家が火災になった。乙亥(25日)に、霜が下りて草木の花や葉を傷めた。この月に、風が吹き、雷が鳴り、氷雨が降った。冬の政令を行ったためである。
夏四月庚辰朔丙戌(4月7日)、大風が吹いて雨が降った。丁亥(8日)に、風が起って天候は寒かった。己亥(20日)に、西風が吹いて雹が降り、天候は寒かった。人は綿の入った衣服を3枚重ねて着た。庚子(21日)に、筑紫の大宰が急使によって、「百済国主の子翹岐弟王子が調使とともにやって来ました」と奏上した。
丁未(28日)に、天皇は権宮から飛鳥板蓋新宮に移った。
甲辰(25日)に、近江国が「雹が降り、その大きさは直径一寸もありました」と奏上した。
五月庚戌朔乙丑(5月16日)、月蝕があった。
六月己卯朔辛卯(6月13日)、筑紫の大宰が急使によって「高麗が使者を派遣してまいりました」と奏上した。群卿はこれを聞き、「高麗は己亥の年から来朝していなかったのが、今年になって来朝した」と語り合った。
辛丑(23日)に、百済の朝貢船が難波津に停泊した。
秋七月己酉朔辛亥(7月3日)、数人の大夫を難波郡に遣わして、百済国の調と献上物を検分させた。そこで大夫たちは調使に「進上した国への調は以前より少ない。大臣への贈物は、去年の品目と同じである。群卿への贈物もまったく持って来ていない。前例と違っている。これはいったいどういうことか」と尋ねた。大使である達率自斯と副使恩率軍善の2人は、「早急に準備いたします」と答えた。自斯は、人質の達率武子の子である。
この月に、茨田池の水がたいそう腐って、小さな虫が水面を覆った。その虫は口が黒く身が白かった。
八月戊申朔壬戌(8月15日)、茨田池の水が変色して藍汁のようになった。死んだ虫が水面を覆い、溝の流れもまた凝結して厚さ3〜4寸ほどになり、大小の魚は、夏に爛れ死んだ時のように腐臭を放った。そのため食用にはならなかった。
九月丁丑朔壬午(9月6日)、息長足日広額天皇(舒明天皇)を押坂陵に葬りまつった。ある本によると、広額天皇を高市天皇とお呼びしたという。
丁亥(11日)、吉備島皇祖母命が薨去された。
癸巳(17日)、土師娑婆連猪手に詔して、皇祖母命の喪葬の礼を監督させた。天皇は皇祖母命が病にかかってから喪葬が始るまで、床の傍らを離れず、たえず看病した。
乙未(19日)、皇祖母命を檀弓岡に埋葬した。この日、大雨が降り雹が降った。
丙午(30日)、皇祖母命の墓を造る労役が終了した。そして臣・連・伴造の各々に応じた帛布が下された。
この月に、茨田池の水がしだいに変化して白色になった。また臭気もなくなった。
冬十月丁未朔己酉(10月3日)、天皇は群臣・伴造を朝堂の庭で饗応し、下賜をした。そして授位の事を協議した。その後、国司に対し「前に勅したように、改めることは何もない。それぞれ任命された所へ行き、自分の任地で身をひきしめて治めよ」と詔した。
壬子(6日)、蘇我大臣蝦夷は病気のため参朝しなかった。ひそかに紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位に擬した。また、入鹿の弟を物部大臣と呼んだ。大臣の祖母は物部弓削大連の妹である。それゆえ母方の財力によって、世に威勢を示したのである。
戊午(12日)、蘇我臣入鹿はひとりで策謀して、上宮の王たちを廃し、古人大兄を立てて天皇としようとした。この時、このような童謡があった。
岩の上に 小猿米焼く 米だにも 食げて通らせ 山羊の小父
(岩の上で小猿が米を焼いている。せめてこの焼米でも食べてお行きなさいよ、山羊の小父さん)
蘇我臣入鹿は、上宮の王たちの威光があるという評判が天下にひびいているのを深く憎んみ、ひとり分限を超えて奢り立つことを策謀したのである。
この月に、茨田池の水は元どおり澄んだ。
挿絵:茶蕗
文章:くさぶき
日本書紀「皇極天皇(4)」登場人物紹介
<皇極天皇>
第35代天皇。先帝・舒明天皇の皇后。
<蘇我蝦夷>
舒明・皇極天皇代の大臣。