干ばつのため、蘇我蝦夷に続いて天皇が雨乞いを試みる。
六月乙酉朔の庚子(6月16日)、わずかに雨が降った。この月に、大旱魃になった。
秋七月甲寅朔壬戌(7月9日)、客星(まれに現れる星)が月に入った。
乙亥(22日)に、百済の使者で大佐平の智積らを朝廷で饗応した。ある本によると、百済の使者大佐平智積とその子である達率、(名を欠く)、及び恩率の軍善がいた。そうして健児(力に優れたもの)に命じて翹岐の前で相撲をとらせた。智積たちは宴会が終わると退出し、翹岐の門を拝礼した。
丙子(23日)、蘇我臣入鹿の豎者(しとべわらわ。少年従者)が白雀の子をつかまえた。この日の同じ時に、ある人が白雀を籠に入れて、蘇我大臣に贈った。
戊寅(25日)、群臣が相談して、「村々の祝部の教えに従って、いろいろと手を尽くしました。牛馬を殺して諸社の神を祭り、たびたび市を移し、河の神に祈りましたが、まったく効果がありません」と言った。蘇我大臣は「寺々で大乗経典を転読(順に唱え読む)せよ。仏の説かれたとおりに罪過を悔い、仏を敬って雨を祈願しよう」と答えた。
庚辰(27日)、大寺の南庭で仏と菩薩の像と四天王の像とを安置し、多くの僧を招請して、大雲経などを読ませた。その時、蘇我大臣は手づから香炉を取り、焼香して発願した。
辛巳(28日)、わずかに雨雨が降った。
壬午(29日)、雨を乞うことはできなかった。そのため読経は中止となった。
八月甲申朔(8月1日)、天皇は南淵の川上に行幸した。四方を跪拝し、天を仰いで祈ると、雷が鳴って大雨が降った。ついに雨が5日間降り、天下をあまねく潤した。ある本によると、5日間雨が続いて、九穀が実ったという。ここに国中の人民はみな喜び、万歳と称えて、「至徳の天皇である」と声を上げた。
己丑(6日)、百済の使者と参官らが帰国することになった。そこで大船と同船とを三艘与えられた。「同船」はモロキ舟という。この日の夜中に、雷が西南の方角で鳴り、風が吹き雨が降った。参官らが乗った船は岸に触れて壊れた。
丙申(13日)、小徳の冠位を百済の人質達率長福に授け、中客以下に位一級を授けられた。各々に応じた賜物があった。
戊戌(15日)、船を百済の参官らに与えて出発させた。
己亥(16日)、高麗の使者が帰国した。
己酉(26日)、百済・新羅の使者が帰国した。
九月癸丑朔の乙卯(9月3日)、天皇は大臣に「私は大寺(百済大寺)を建立しようと思う。近江と越との丁を徴発せよ」と詔した。また諸国に命じて、船を造らせた。
辛未(19日)、天皇は大臣に詔して、「この月に起工して、12月までに宮殿を造ろうと思う。国々に宮殿の用材を伐採させよ。そうして東は遠江から西は安芸まで、宮殿を造る丁を徴発せよ」と仰せられた。
癸酉(21日)、越の辺りの蝦夷数千人が帰順した。
挿絵:あんこ
文章:くさぶき
日本書紀「皇極天皇(2)」登場人物紹介
<皇極天皇>
第35代天皇。先帝・舒明天皇の皇后。
<蘇我蝦夷>
舒明・皇極天皇代の大臣。