高倉院には4人の皇子がいたが、皇位についたのは第四皇子の尊成親王だった。尊成親王の即位に至った経緯とは。


高倉院の皇子は(安徳)天皇のほかに三人おられた。
中でも第二皇子・守貞(もりさだ)親王を皇太子にお立てしようと、平家はお連れして西国へ落ちられた。
第三皇子・惟明(これあき)親王と第四皇子・尊成(たかひら)親王は都にいらっしゃった。
同年八月五日、後白河法皇はこの宮たちを呼び寄せられ、まず五歳になられる第三皇子・惟明親王を
「こちらへ、こちらへ」
と仰せになると、皇子は後白河法皇をご覧になってたいへんむずかられたので
「早く早く」
とお出しになった。
その後、四歳になられる第四皇子・尊成親王を
「こちらへ」
と仰せになると、皇子は少しもご遠慮なさらずすぐに後白河法皇の御膝の上に乗られて、いかにも親しげでいらっしゃった。
法皇は涙をはらはら流され
「まことに何の関係もない者が、この老法師を見て、どうして親しげに思うだろうか。四宮は真の我が孫であられる。
高倉院の幼少の頃と少しも違わないものであるな。
残念なのはこれほど素晴らしい忘れ形見を今まで目にしなかった事だ」
と涙をお止めになることができなかった。
浄土寺におられる後白河法皇の后・二位殿は、当時まだ丹後殿として御前におられたが、
「それでは皇位をお継ぎになるのはこの宮ということなのでしょうね」
と申されると、後白河法皇は
「異議があろうか」
と仰せになった。
内々で占いを行ったときも
「四宮が天皇の位におつきになれば、百代までも日本国の主となりましょう」
と判断申し上げた。
四宮の母君は七条修理大夫・藤原信隆殿の娘である。
建礼門院が中宮でいらっしゃった時、そのお方に仕えておられたのを高倉天皇がいつも召されているうちに、続けざまに宮を数多くお産みになった。
信隆卿は多くの娘があり、何とかして女御か后に立てたいと思われていたが、人が白い鶏を千羽飼うと、その家から必ず后になる人が出るということもあると、白い鶏の千羽揃えて飼われたためか、この娘も皇子をたくさんお産みになった
信隆卿も内心嬉しくは思われたものの、平家にも気兼ねし、中宮にも遠慮して、お世話して差し上げることはなかったが、入道相国・平清盛の北の方・八条二位殿は、
「差支えあるまい。私がお育て申し上げ、皇太子におつけしよう」
と、乳母どもをたくさんつけて育てられた。

中でも四宮は八条二位殿の兄・法勝寺執行能円法印が養育した方でいらっしゃった。
法印が平家に連れられ西国へおちた時、あまりに慌て騒いで、北の方も宮も京都に捨て置き申され西国に下られたが、法印は西国から急ぎ人を上洛させ、
「女房、宮をお連れして、急いで西国へお下りになるように」
と申されたので、北の方は格別に喜び、宮をお連れして西七条にある所までお出になると、女房の兄の紀伊守・藤原範光が、
「これは物でも憑いて狂われたか。四宮の御運は今まさに開かれようとしているのに」
と引き留め申された次の日に、後白河法皇からお迎えの車が参ったのだ。
何事もそうなる運命であるとは申しながら、四宮にとっては紀伊守範光は功績のある者だと思われる。
しかし、四宮が皇位におつきになられて後、その忠義もお思い出しになられず、範光は朝廷の恩賞もないまま空しく年月を送っていた。甚だ思い余ってのことか、二首の歌を詠んで、宮中に落書きをした
一声は思い出て鳴けほととぎす 老蘇(おいそ)の森の夜半の昔を
(一声ぐらいは鳴けよホトトギス。老蘇の森の夜中に鳴いた昔を思い出して)
籠の内もなほうらやまし山がらの 身のほど隠す夕顔の宿
(籠の中でさえうらやましいと思う山雀が身を隠している夕顔の咲く家)
天皇(四宮)はこれをご覧になって
「あぁ、痛ましいことだ。それではまだこの世に生きておったのだな。
今日までこれを気にかけずにおったのは、愚かなことであった」
と仰せになり、範光は朝廷の恩賞を頂戴し正三位に叙せられたということである。


挿絵:黒嵜資子(くろさきもとこ)
文章:やっち


平家物語「山門御幸(後)」登場人物紹介

<後白河法皇>
高倉院の父、四宮の祖父。長きにわたり院政を行った。
<四宮>
尊成親王。後の後鳥羽天皇。高倉院の第四皇子で、後白河法皇の孫。