先帝が崩御し、皇極天皇が即位する。また、百済と高句麗で政変があった。
皇極天皇(1)
天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)は渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)の曾孫であり、押坂彦人大兄皇子の孫であり、茅渟王の娘である。母は吉備姫王という。天皇は古道に従って考え政治を執り行った。息長足日広額天皇(舒明天皇)2年に、皇后となった。
舒明天皇13年(641年)10月、舒明天皇が崩御した。
皇極天皇元年春正月丁巳朔辛未(642年1月15日)、皇后は天皇の位に即いた。蘇我蝦夷は引き続き大臣を務めた。大臣の子・入鹿(またの名を鞍作)は、自ら国の政治を執り、その権勢は父に勝っていた。このため盗賊は恐れて、道に落ちているものも拾わなかった。
乙酉(29日)、百済に遣わした使者である大仁の阿曇連比羅夫が筑紫国から急いで駆けつけて、「百済国は天皇が崩御されたと聞いて、弔使を派遣いたしました。私は弔使に随行して共に筑紫に到着しました。しかし私は葬儀にお仕えしたいと望み、一人先んじて参上いたしました。今、百済国はたいそう乱れております」と奏上した。
二月丁亥朔戊子(2月2日)、阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金・倭漢書直県を百済の弔使のもとに派遣し、国の状況を尋ねさせた。弔使は、「百済国主は、『塞上はいつも悪業を行っている。百済へ帰る使者に言付けて帰国させてくださるよう請願しても、天皇はお許しにはなるまい』と私に語っておりました」と報告する。百済の弔使の従者たちは、「去年の11月に、大佐である平智積が卒去しました。また百済の使者が崐崘(インドシナ半島南東地域)の使者を海中に投げ入れました。今年の正月は、国主の母が薨じました。また弟王子の子・翹岐とその同母妹の女子4人、内佐の平岐味、高名な者の40人余りが島に追放されました」と言った。
壬辰(6日)に、高麗の使者が難波津に停泊した。
丁未(21日)に、諸々の大夫たちを難波郡に遣わして、高麗国が貢上した金銀など、併せて献上物を調べさせた。使者は献上を終えると、「去年の6月に、弟王子が薨じました。9月に、大臣である伊梨柯須弥が大王を殺し、併せて伊梨渠世斯ら180人余りを殺しました。そうして弟王子の子を王とし、自分の親族である都須流金流を大臣としました」といった。
戊申(22日)に、高麗・百済の客を難波郡で饗応した。天皇は大臣に、「津守連大海を高麗に、国勝吉士水鶏を百済に、そして草壁吉士真跡を新羅に、坂本吉士長兄を任那に派遣せよ」と詔した。
庚戌(24日)に、翹岐を召して阿曇山背連の家に住わせた。
辛亥(25日)に、高麗・百済の客を饗応した。
癸丑(27日)に、高麗と百済の使者が共に帰国した。
三月丙辰朔戊午(3月3日)、雲がないのに雨が降った。
辛酉(6日)に、新羅は新天皇即位を祝う使者と前天皇崩御を弔う使者を派遣した。
庚午(15日)に、新羅の使者が帰国した。
この月に、長雨が降った。
夏四月丙戌朔癸巳(4月8日)に、大使の翹岐はその従者を引き連れて天皇を拝朝した。
乙未(10日)に、蘇我大臣は畝傍の家に百済の翹岐らを呼んで、自ら対面して話をした。そうして良馬1頭・錬り鉄20鋌を与えた。しかし塞上だけは呼ばなかった。
この月に、長雨が降った。
五月乙卯朔己未(5月5日)に、河内国の依網屯倉の前に翹岐らを召して、射猟を観せた。
庚午(16日)に、百済国の調使の船と吉士の船が、共に難波津に停泊した。思うに吉士は以前、百済に使いを命じられていたのであろうか。
壬申(18日)に、百済の使者が朝貢し、吉士が復命した。
乙亥(21日)に、翹岐の従者一人が死去した。
丙子(22日)に、翹岐の子が死去した。この時、翹岐と妻は、子が死んだことを忌み恐れて、決して喪葬の儀に出なかった。およそ百済・新羅の風俗では、人が死ぬと、父母・兄弟・夫婦・姉妹といえども、決して自ら死者を見ない。ここから考えると、無慈悲の甚だしいこと、どうして禽獣と異なることがあろうか。
丁丑(23日)に、稲が初めて実った。
戊寅(24日)に、翹岐はその妻子を連れて、百済の大井の家に移った。そうして人を遣って子を石川に葬らせた。
挿絵:雷万郎
文章:くさぶき
日本書紀「皇極天皇(1)」登場人物紹介
<皇極天皇>
第35代天皇。先帝・舒明天皇の皇后。
<蘇我蝦夷>
舒明・皇極天皇代の大臣。