先代の天皇が皇太子を立てないまま崩御したため、どちらを天皇にするか朝議が紛糾する。
舒明天皇(1)
息長足日広額天皇(舒明天皇)は渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)の孫であり、彦人大兄皇子の子である。母は糠手姫皇女という。
豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)二十九年(621年)に、皇太子豊聡耳尊(聖徳太子)が薨去した。しかし、まだ皇太子を立てていなかった。
推古天皇三十六年(628年)の3月、推古天皇が崩御した。
9月に、葬礼が終わった。まだ天皇の後継は定まっていなかった。この時の大臣は蘇我蝦夷臣であった。蝦夷はひとりで後継を定めようと思ったが、群臣からの反発を恐れて阿倍麻呂と相談し、群臣を蝦夷の家に集めて饗応した。食事が終わって散会する頃、蝦夷は阿倍麻呂に命じて以下のように語らせた。
「今、天皇は崩御されたが、後継がいない。早急に取り計らわねば、乱が起こる恐れもある。さて、どの王を後継とすればよいか。天皇がご病気になられた時、田村皇子に詔して『天位に昇り、鴻基を治め整え、国政を御して民を育て養うのは、もとより容易く言葉にすることではない。常に重みのあるものだ。それゆえ、そなたは慎んで観察し、軽々しく発言してはならない』と仰せられた。次に山背大兄皇子に詔して、『そなたひとりであれこれ発言してはならない。必ず群臣の言葉に従い、道を違えないよう用心深くふるまいなさい』と仰せられた。これが天皇の遺言である。さて、誰を天皇とすればよかろう」
しかし、群臣は黙して答える者はいなかった。再度尋ねたが、答えはなかった。強いてまた尋ねた。この時、大伴鯨連が進み出て、「天皇の遺命に従うのみです。群臣の言葉を待つまでもありません」と言った。
そこで阿倍麻呂は「どういうことなのか。その本意を明らかにせよ」と尋ねた。そこで、「天皇がどのようなお考えで、田村皇子に詔して『天下の統治を委任されることは大業である。怠ってはならない』と仰せられたのか。これによって皇位はすでに定まったと言えます。誰が異議を申しましょうか」と答えた。
すると采女臣摩礼志・高向臣宇摩・中臣連弥気・難波吉士身刺の四臣が、「大伴連の言葉どおり、まったく異論はございません」と言った。一方、許勢臣大摩呂・佐伯連東人・紀臣塩手の三人が進み出て、「山背大兄皇子を天皇とするべきです」と言った。
ただ蘇我倉摩呂臣(またの名は雄当)だけがひとり、「私は現時点で軽々しく申し上げることができません。さらに考えた後、謹んで申し上げます」と言った。蝦夷大臣は、群臣が協調しないので、とても事を成すことはできないと知り退出した。
以前、蝦夷は独自に境部摩理勢に「今、天皇は崩御されたが、後継がいない。誰を天皇とすればいいか」と尋ねていた。摩理勢は「山背大兄皇子を天皇に推す」と返答した。
挿絵:あんこ
文章:くさぶき
日本書紀「舒明天皇(1)」登場人物紹介
<田村皇子>
敏達天皇の孫であり、彦人大兄皇子の子。
<山背大兄皇子>
厩戸皇子(聖徳太子)の子。
<蘇我蝦夷>
蘇我馬子の子。大臣。