天皇は新羅と任那の両国に使者を派遣し、新羅はそれに応じて、自国と任那の調を献上する。
この年(623年)、新羅は任那を征討し、任那は新羅に帰属した。そこで天皇は新羅を討とうと、大臣に謀って群卿に諮問した。
田中臣は「急いで討ってはなりません。まず状況を観察し、従わぬことを確認してから攻撃をしても遅くはありません。どうかまず使者を派遣して、現状を視察させてください」と奏上した。
中臣連国は、「任那はもともと我が国の内官家(倭国朝廷への貢納国)です。ところが今、新羅人はこれを侵略しました。どうか軍を送り新羅を征討し、任那を奪回して百済に帰属させてください。新羅から任那を得ることに、どうして益がないといえるでしょう」と奏上した。
田中臣は、「いいえ、百済はよく反覆する国です。道路の距離さえも簡単に欺きます。およそ百済の言葉はすべて信用なりません。それゆえ、任那を百済に帰属させてはなりません」と奏上した。征討は取りやめになった。
天皇は吉士磐金を新羅に、吉士倉下を任那に派遣して、任那のことを尋ねさせた。時の新羅国の主は8人の大夫を派遣して、新羅国のことを磐金に、任那国のことを倉下に報告した。そうしてこのように約束した。
「任那は小国ではありますが、天皇の附庸(ふよう。属国)です。どうして新羅がたやすく領有などできましょう。今までのように内官家とお定めになり、どうかご心配なさらないでください」
そして、奈末智洗遅を派遣して吉士磐金に、任那人の達率奈末遅を吉士倉下に従わせて、両国が調を奉った。ところが、磐金らがまだ帰国しないうちに、その年、大徳の境部臣雄摩侶と小徳の中臣連国を大将軍とし、小徳の河辺臣禰受・小徳の物部依網連乙等・小徳の波多臣広庭・小徳の近江脚身臣飯蓋・小徳の平群臣宇志・小徳の大伴連〔名を欠く〕、小徳の大宅臣軍を副将軍として、数万の軍衆を率いて新羅を征討しようとしていた。
その時、磐金らはみな港に集合して、発船しようと風波をうかがっていた。そこへ船軍が海一面に満ちるほど多数やって来た。両国の使者はこれを遠くから見て愕然とし、すぐさま引き返して国に留まった。そこであらためて、任那の調使として堪遅大舎を代りに貢上した。磐金たちは「このように軍を起こすことは、既に以前の取り決めと違っている。これで任那の事は今回もまた成功しないであろう」と語り合った。そうして発船して海を渡った。
ところで将軍たちは、やっと任那に到着して諮り、新羅を襲撃しようとしていた。新羅国の主は、多数の軍兵が到来したと聞いて、恐れて事前に降伏を願い出た。そこで将軍たちは協議して上表文を奉り、天皇はこれを承服した。
11月に、磐金・倉下たちが新羅から帰国した。大臣の蘇我馬子が両国の状況を尋ねると、このように答えた。
「新羅はご命令を承って驚き畏まり、新羅・任那ともに特使を指命して、朝貢しようとしました。ところが、船軍がやって来たのを見て、朝貢の使者は引き返してしまいました。ただ調だけは予定どおり貢上いたしました」
これを聞いて馬子は、「残念なことだ。軍勢を遣わすのが早かった」と言った。当時の人は、「今度の軍事は、以前に境部臣・阿曇連が新羅から多くの賄賂を受け取っていたから、大臣にも勧めたのだ。そのために、使者の報告も待たずに、早まって征討しようとしたのだ」と言った。
先に磐金らが新羅に渡った日に、港に着く頃に、荘船(飾船)一艘が湾内に出迎えた。磐金が「この船はどこの国の迎船か」と尋ねると、「新羅の船です」と答えた。磐金はまた、「なぜ任那の迎船はないのだ」と言った。するとすぐに、任那の迎船としてもう一艘を加えた。新羅が迎船二艘を出すことは、この時に始まったのであろうか。
春から秋にかけて、長雨が降り、大水が出て、五穀は実らなかった。
挿絵:やっち
文章:くさぶき
日本書紀「推古天皇(9)」登場人物紹介
<推古天皇>
第33代天皇。新羅と任那の両国に使者を派遣する。
<吉士磐金・吉士倉下>
それぞれ新羅・任那への使者。