推古天皇二十九年二月の夜半、聖徳太子が病に倒れ、斑鳩宮で薨去する。
推古天皇二十九年(621年)春二月己丑朔癸巳(5日)の半夜に、厩戸豐聰耳皇子命(聖徳太子)が斑鳩宮にて薨去した。
この時、諸王臣及び天下の百姓は、すべての老人は愛児を失ったがごとく、塩や酢が口の中にあっても分からず、幼い子は慈しみ深い父母を亡くしたがごとく泣き悲しむ声が、行路にまで満ちた。田を耕す耕夫は鋤で耕すことを止め、穀物を臼でつく舂女は杵でつくことができなくなった。皆がいうことには、「日も月も輝きを失い、天地はすでに崩れてしまった。今より以後、誰を頼ればいいのか」ということである。
この月、上宮太子(聖徳太子)を磯長陵に埋葬した。この時、高麗の僧である慧慈は、皇太子(聖徳太子)が薨じたことを聞いて大いに悲しみ、亡くなった皇太子のために高句麗の僧たちに請い設斎を行った。そのため、自らが経を読む日に、誓願することには、「日本国に於いて聖人有り、上宮豐聰耳皇子と言う。天より地に降りられ、玄聖の徳を以って日本の国に生まれた方である。夏殷周の三統の偉大な王を追い抜くほどで、先の聖王たちの偉大な政策を引き継ぎ、三宝を恭み敬い、黎元(=冠をつけない黒髪の頭のことで、転じて庶民のこと)を厄より救った。これは実に大聖である。今、すでに太子は薨じてしまったが、わたくしは国が異なるといえども断金(易経による、金属を断つことができるほどの固い友情の意)の想いであるので、独り生きていくことになんの益があろうか。わたくしは来年の二月五日に必ず死して、浄土において上宮太子にお会いし、共に衆生(=あらゆる生き物)になろう」。是に於いて、慧慈はその期日(翌年の二月五日)に死去した。
これを以って、当時の人々は彼のことを共にこう言った。「上宮太子一人が聖人であったわけではなく、慧慈もまた聖人であったのである」
この年、新羅遣の奈末伊弥買が朝貢し、上表の書を奏じた。凡そ新羅の上表は、この時が初めてであったか。
三十一年(623年)秋七月、新羅遣大使奈末智洗爾、任那遣達率奈末智が来朝した。仏像一具及び金塔と仏舎利、大觀頂幡一具と小幡十二條を貢じた。そこで、仏像は葛野秦寺(広隆寺)に安置され、残りの舎利・金塔・灌頂幡等はみな四天王寺に納められた。この時、大唐の学問僧である惠齋・惠光・薬師の惠日・福因たちが智洗爾に伴われて来朝した。
この時、惠日たちが共に奏上するを聞くことには、「唐の国に留学した学者たちは、みな学業を成しておりますので、呼び戻せば応じることができます。それから、大唐の国は法式が整備され定められている珍しい国ですから、常に外交で友好にしているべきです」とのことだった。
挿絵:歳
文章:708(ナオヤ)
日本書紀「推古天皇(8)」登場人物紹介
<厩戸豐聰耳皇子命・上宮太子>
聖徳太子のこと。
<慧慈>
高麗からの渡来僧で、聖徳太子の仏教の師。推古天皇二十三年に帰国。
<薬師惠日>
推古天皇十六年に遣隋使として隋に渡り医術を習得、隋の滅亡と唐の建国を経験した上で帰国。