宴の席で、天皇と蘇我馬子が互いに歌を贈り合う。


 推古天皇十九年夏五月五日(619年5月5日)、菟田野で薬猟が催された。暁に藤原池のほとりに集合し、曙に出発した。粟田細目臣を先隊の長とし、額田部比羅夫連を後隊の長とした。この日、諸臣の服の色はみなそれぞれの冠の色に従い、おのおの挿頭(かざし)を挿していた。その挿頭は、大徳・小徳にはどちらも金を用い、大仁・小仁は豹の尾を、大礼から下は鳥の尾を用いた。
 8月に、新羅は沙㖨部奈末北叱智を使者として派遣し、任那は習部大舎親智周智を派遣して、共に朝貢した。
 推古天皇二十年春正月辛巳朔丁亥(620年1月7日)、天皇は群卿に酒を振舞って宴会を催した。この日、蘇我馬子大臣は酒杯を献じて歌を詠んだ。
  やすみしし 我が大君の 隠ります 天の八十蔭 出で立たす みそらを見れば 万代に かくしもがも ちよにも かくしもがも 畏みて 仕え奉らむ 拝みて 仕えまつらむ 歌づきまつる
 (我が君が天の光からお隠れになる広々とした宮殿。そこから外へ出て空を見る。千代も万代もこの空のように立派であってほしいものです。私どもは畏み崇めて我が君にお仕えするとともに、この祝歌を献上いたします)
 天皇はその歌にこう返す。
  真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき
 (真蘇我よ、蘇我一族の人々は、馬でいえば日向の良馬、太刀でいえば呉の利剣である。蘇我一族の者を大君が臣下にするのはもっともなことだ)
 二月辛亥朔庚午(2月20日)に、皇太夫人・堅塩媛を檜隈大陵に改葬した。この日に、軽の街で誄の儀式を行った。第一に、阿倍内臣鳥が天皇の誄の言葉を述べて、霊に供物を奉った。明器・明衣の類が、一万五千種あった。第二に、諸皇子たちが序列に従ってそれぞれ誄を述べた。第三に、中臣宮地連烏摩侶が大臣の誄の言葉を述べた。第四に、蘇我馬子大臣が多くの氏族の臣らを引き連れ、境部臣摩利勢に氏姓の本について誄を述べさせた。時の人は、「摩理勢・烏摩侶の二人はよく誄を申し述べたが、鳥臣だけはうまく誄を述べられなかった」と言った。
 5月5日、薬猟が催された。羽田に集合し、連れ立って朝廷に参向した。その装束は菟田の猟の時と同じであった。
 この年に、百済国から来朝した者がおり、その顔や身体には一面に白い斑(紋)があった。もしかすると白癩がある者であろうか。その者が、人と異なる様相であることを嫌って、海中の島に棄てていこうとしたところ、その人はこう言った。
「もし私の斑紋のある肌を嫌うのなら、白い斑の牛馬は国内で飼えないはずです。また、私には多少の特技があって、築山を造ることができます。もし私を留めて使ってくださるなら、国の利益になりましょう。どうして無駄に海の島に棄てていこうとなさるのですか」

 この言葉を聞いて棄てるのを止め、須弥山の築山と呉橋を南庭に造らせた。当時の人は、その人を名付けて路子工といった。またの名を芝耆摩呂という。
 また百済人の味摩之が来朝して「呉に学んで、伎楽の舞を習得しました」と言った。そこで桜井に住わせ、少年を集めて伎楽の舞を習わせた。真野首弟子・新漢斉文の二人が習って、その舞を伝えた。これが今の大市首・辟田首らの先祖である。
 推古天皇二十一年冬十一月(621年11月)、掖上池・畝傍池・和珥池を造った。また、難波から京に至る大道を設けた。


挿絵:708
文章:くさぶき


日本書紀「推古天皇(6)」登場人物紹介

<推古天皇>
第33代天皇。堅塩媛は母。
<蘇我馬子>
推古朝の大臣。