遣隋使として派遣した小野妹子は、隋の裴世清らとともに帰還した。


 推古天皇15年秋七月戊申朔庚戌(607年7月3日)、大礼・小野臣妹子を大唐(隋)への使者として派遣した。鞍作福利を通訳とした。
 この年の冬、倭国に高市池・藤原池・肩岡池・菅原池を造った。山背国の栗隈(くるくま)に大きな溝を掘り、河内国に戸苅池・依網池を造り、国ごとに屯倉(みやけ。天皇または朝廷の直轄領)を置いた。
 推古天皇16年夏四月(608年4月)、小野妹子が大唐から帰国した。隋国は妹子を蘇因高と呼んだ。隋の使者・裴世清と下客十二人が、妹子とともに筑紫へやって来た。天皇は難波吉士雄成を遣わして、隋の客である裴世清たちを召した。客人たちをもてなすため、難波の高麗館の傍らに新しい館を造った。
 六月壬寅朔丙辰(6月15日)、客人たちは難波津に停泊した。この日に、飾船(美しく飾り立てた船)30艘で客人たちを江口に迎え、新しい館に宿泊させた。このとき、中臣宮地連烏磨呂・大河内直糠手・船史王平を接待役とした。
 妹子は「私が帰還する際、隋の煬帝は私に書簡を授けました。しかし百済国を通過した際、百済人に盗まれてしまったため、献上することができなくなりました」と奏上した。
 そこで群臣は相談して、「そもそも使者というのは、死んでも任務を遂行するものである。この使者は、なぜそれを怠って大国の書簡を失ったのか」と、流刑に処することにした。天皇はこう勅する。
「妹子に書簡を失った罪はあるが、軽々しく断罪してはならない。大国の客人たちがこれを聞いたら、不都合であろう」と、赦して罪を問わなかった。
 秋八月辛丑朔癸卯(8月3日)、隋の客人たちは京に入った。この日に、飾馬75頭を遣わして、客人を海石榴市の巷で迎えた。額田部連比羅夫が儀礼の挨拶を述べた。
 壬子(12日)、唐の客を朝廷に召して、使者の趣旨を奏上させた。この時に、阿倍鳥臣と物部依網連抱の二人を、客の案内役とした。
 隋国の贈物を庭に置き、使主・裴世清は自ら書簡を持って二度再拝し、立って使者の趣旨を言上した。その書にはこう記されていた。
「皇帝はここに倭王への挨拶を述べる。使者長吏大礼・蘇因高の一行が来て、倭王の考えを詳しく伝えた。私は天命を謹承して天下に君臨した。徳化を広めて人々に及んでいくことを思っている。慈しみ育む情は、遠近による隔たりなどない。倭王は海外にいて、民衆を愛み、国内は安泰であり、風習も融和し、志が深く至誠の心があって、遠くからはるばると朝貢して来たことを知った。その丹款の美を私は嬉しく思う。ようやく暖かくなり、こちらに変りはない。そこで鴻臚寺の接待役として裴世清らを遣わして、往訪の意を述べ、併せて別に物を送る」

 阿倍臣が進み出て、その書を受け取って、さらに前へ進んだ。大伴囓連が迎え出て書を受け取り、大門の前の机上に置いて奏上し、それが終わると退出した。この時、皇子・諸王・諸臣はみな金の頭挿(かざし。髪飾り)をしていた。また衣服はすべて錦・紫・繍・織と五色の綾羅を用いていた。一説によると、服の色はみなそれぞれの冠の色を用いたという。
 丙辰(16日)、隋の客人たち一行を朝廷で饗応した。
 九月辛未朔乙亥(9月5日)、客人一行を難波の大郡で饗応した。


挿絵:時雨七名
文章:くさぶき


日本書紀「推古天皇(4)」登場人物紹介

<小野妹子>
最初の遣隋使。蘇因高は「小(野)妹子」の音写に基づく。
<裴世清>
隋側の使者。官品は従八品。