智証大師が和尚の付託を受けて三井寺を再興し、寺門を創設した話。


今は昔、智證大師は比叡山の僧として、千光院に住んでいた。また、天台座主(比叡山延暦を統治する天台宗の最高僧職)としてその院に住んでおり、天皇をはじめとして、世間の者は皆、この上なく尊んでいた。
ところで、智證大師は自分の門流を別に立てようと考えた。我が門流の仏法を伝えるにはどの場所が適当であろうかとあちこちを捜し歩いていると、近江国志賀に、むかし大伴の皇子の建てた寺があった。大師はその寺に行って寺の様子を見ると、この上なく尊かった。東には琵琶湖を擁し、西には深い山、北は林、南は谷がある。金堂は瓦で葺き、二階建てで裳層をめぐらせ、その中には丈六の弥勒菩薩が安置されている。寺のそばには僧房があり、寺の下には石筒を立てた井戸が一つある。すると一人の僧が出てきて、「わたしはこの寺の僧でございます」と名乗り、「この井戸は一つですが、三井と名づけられております」と大師に言った。大師がそのわけを尋ねると、「それは三代の天皇がお生れになった際、産湯の水をこの井戸から汲んだため、三井と申すのでございます」と僧は答えた。
大師はこの話を聞いた後、先に見た僧房に行ってみたが、人の気配もない。しかし、荒れ果てた僧房が一つあり、老いさらばえた僧が一人いた。よく見ると魚の鱗や骨などが食い散らかっており、なんともいえない臭いがただよっている。これを見た大師が近くの僧房にいる僧に、「この老僧はいったい何者なのです」と尋ねた。「この老僧は、長年この湖の鮒をとって食うのを仕事のようにしています。それ以外に仕事は何もしておりません」と僧は答えた。大師はこれを聞いても、老僧の姿を見ると、尊い人のように思われた。「きっと何かわけがあるのだろう」と思い、その老僧を呼び出して話をした。
老僧は大師にこう語る。
「わたしがここに住むようになってから、すでに百六十年がたちました。この寺は造られてから [欠字] 年になりますが、弥勒菩薩がこの世にご出現になる時まで維持すべき寺でございます。これまでは、この寺を維持すべき適当な人がおりませんでしたが、今日、幸いなことに大師がおいでになりました。そこで、この寺を永久に大師にお譲りいたします。大師以外に維持すべき人はおりません。わたしは年を老い、心細く思っておりましたので、こうしてお譲り申すのは、まことに喜ばしいことです」と言って、泣く泣く帰っていった。
その時、唐車に乗ったやんごとない人が現れた。智證大師を見て喜ばしげに、「わたしはこの寺の仏法を守護することを誓った者です。それがいま、聖人にこの寺をお任せすることができ、これからは大師が仏法をお広めになるわけですから、今後は大師を深くお頼みいたします」と約束して帰っていった。だが大師には、この人が何者なのかわからない。そこで、お供の [欠字] に、「今おいでになったのはどなたですか」と尋ねると、「三尾明神(三井寺の地主神)がおいでになったのです」と答えた。

「思ったとおりだ。あの方は普通の人ではないとお見受けした。あの老僧の様子をもっとくわしく見よう」と思い、その僧房に帰ってみると、はじめは臭かったのが、今度はひどく芳しい。案の定と思って入ってみると、鮒の鱗や骨に見えたものは、しぼんだ蓮華や色鮮やかな蓮華を鍋に入れて煮たのを食い散らかしてあるものだった。驚いて隣の僧房に行き、これを尋ねると、一人の僧が、「この老僧は教代和尚(教待和尚)と申し上げるお方です。人の夢には、弥勒菩薩のお姿にお見えになったと言います」と答えた。大師はこれを聞き、いよいよ敬い尊び、深い契りを結んで帰っていった。その後、経論や仏典をもち、多数の弟子をひきつれてこの寺に移り、仏法を広めた。今もその仏法は隆盛である。
今の三井寺の智證大師というのはこの人である。かの宋において伝え受けられた大日如来の宝冠は、今もその寺にある、と語り伝えられている。


挿絵:茶蕗
文章:くさぶき


今昔物語集「智証大師初門徒立三井寺語」登場人物紹介

<智証大師>
円珍。天台宗寺門派の祖。