蘇我馬子は仏教に帰依し三人の尼を奉るが、疫病が流行り馬子自身も病に倒れる。物部守屋は疫病の原因は仏神を祀ったことだと主張し……
蘇我馬子の崇仏
敏達天皇十三年春二月、癸巳朔庚子(西暦584年2月8日)、難波吉士木蓮子(なにわのきしいたび)を新羅へ遣わした。彼は任那へたどり着いた。
秋九月、百済より渡来した鹿深臣(かふかのおみ)という人が弥勒菩薩の石像一体を持っていた。佐伯連(さえきのむらじ)という人もまた、仏像一体を持っていた。
この年に、蘇我馬子宿禰(そがのうまこのすくね)はその仏像二体をもらい受け、すぐに鞍作村主司馬達等(くらつくりのすぐりしまのたちと)と池辺直氷田(いけべのあたいひた)をして国中を訪ねさせ、仏教の修行者を探し求めた。そして、播磨の国でただ一人、僧から還俗した者を見つけた。その者の名を高麗の恵便(こまのえべん)という。
馬子大臣は彼を導師として司馬達等の娘、島(しま)を出家させた。法名を善信尼(ぜんしんに)という。歳は十一歳であった。また、善信尼の弟子二人も出家させた。一人は漢人夜菩(あやひとのやぼ)の娘、豊女(とよめ)で法名を禅蔵尼(ぜんぞうに)、もう一人は錦織壺(にしこりのつふ)の娘、石女(いしめ)で法名を恵善尼(えぜんに)という。
馬子はひとり仏法に帰依してこの三人の尼を崇敬した。三尼を氷田直と達等に託して衣食の世話をさせた。仏殿を邸の東方につくり、弥勒菩薩の石像を安置して祀った。また、三尼を招いて大規模な法会を執り行った。
このとき、司馬達等は仏舎利を斎食の上に得た。舎利を馬子宿禰に奉る。
馬子宿禰は試しに舎利を鉄の台に置いて、鉄鎚を振るって打ってみた。鉄の台と鉄鎚は粉々に砕けた。しかし、舎利は全く砕けなかった。
馬子宿禰は次に、舎利を水の中に投げ入れてみた。舎利は心で願うがままに浮いたり沈んだりした。
これをうけて、馬子宿禰、池辺氷田、司馬達等は仏法を信仰し続け、その修行を怠らなかった。
馬子宿禰はまた、石川の邸に仏殿をつくった。
仏法のはじめはこれより興ったのである。
敏達天皇十四年春二月、戊子朔壬寅(西暦585年2月15日)、蘇我大臣馬子宿禰は大野丘の北に仏塔を建てて大きな法会を執り行った。そして、達等が得た仏舎利を塔の柱頭に納めた。
辛亥(24日)に、馬子大臣は病に倒れた。病の原因を卜者(占い師)に問うた。卜者が答えて言うには、
「父君のときにお祀りした仏神の御心が祟っているのでしょう」
とのことであった。
大臣はすぐに子弟を遣わして、その占いの結果を帝に奏上した。
帝が詔して仰ることには、
「卜者の言葉に従って、御父上が崇拝していた仏神を祀りなさい」
とのことであったので、大臣は詔を承り、弥勒の石像を礼拝して延命を乞うた。
このとき、国に疫病が流行って民が大勢死んだ。
物部守屋らの破仏
三月丁巳朔(3月1日)、物部弓削守屋大連(もののべのゆげのもりやのおおむらじ)と中臣勝海太夫(なかとみのかつみのまえつきみ)が帝にこのように奏上した。
「なにゆえ、私どもの意見を用いてくださらないのですか。御父帝の御代より陛下に至るまで、疫病が流行り国民は死に絶えようとしております。これはひとえに、蘇我臣が仏法などを興したゆえではないのですか」
帝は詔して、
「全くその通りである。仏法は止めよ」
と仰った。
物部守屋は自ら寺へ行き、胡床に腰かけて、仏塔を斬り倒して火をつけて焼き、併せて仏像と仏殿をも焼いた。そして焼け残った仏像を回収して、難波の堀江に棄てた。
この日、雲がないのに風が吹き雨が降った。守屋大連は雨よけの衣を着た。彼は、馬子宿禰と馬子に従って勤行をする僧侶を責め立てて辱めようという心を持った。そして、佐伯造御室(さえきのみやつこみむろ)を遣わして、馬子宿禰が世話をしている善信尼ら三人の尼を呼びつけた。馬子宿禰は、その命令に逆らうことはできないと嘆き、涙を流しつつ三人の尼を呼び出し、御室に引き渡した。役人は、尼達の法衣を奪い取り、縛り、海石榴市の駅舎で鞭打った。
さて、天皇は朝鮮半島に任那を再興したいと考え、坂田耳子王(さかたのみみこのおおきみ)を御使いに指名された。しかし、このとき天皇と大連がにわかに疱瘡を患ったため、遣わすことができなかった。
天皇は橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ)に詔してこう仰った。
「我らが父、欽明天皇の詔に背くことがあってはならぬ。任那の再興を必ず成すべし」
と。
疱瘡を患い死ぬ者が国中に満ちた。疱瘡患者は「身体を焼かれ、打たれ、砕かれているかのようだ」と言って泣き叫びつつ死んでゆく。
これは仏像を焼いた罪か、と老いも若きも密かに言い合った。
夏六月に馬子宿禰は
「私の病は今に至るまで癒えません。もはや、御仏の力に頼らなければ治ることはないでしょう」
と言った。それを受けて帝は
「そなたひとりが仏法を信仰することは許そう。だが、他の人がこれを祀ることはならぬ」
と仰った。そして、善信尼ら三人の尼を馬子宿禰に還した。
馬子宿禰は悦び、稀有なことだと感嘆して三尼を伏し拝んだ。新たに寺院を建て、彼女らを迎え入れて世話をした。
(或る本に曰く、物部弓削守屋大連・大三輪逆君・中臣磐余連はともに仏法を滅ぼそうと謀って寺院を焼き、仏像を棄てようとしたが、馬子宿禰は争ってそれに従わなかったという)
秋八月、乙酉朔己亥(8月15日)、天皇は病がその身を去らず、大殿にて崩御あそばされた。このときに殯宮を広瀬の地に建てた。
馬子宿禰は刀を佩いて弔辞を奉った。
その姿を見て物部弓削守屋大連は周囲に構わず咲(わら)って、まるで矢に射られた雀のようだ、と言った。
次に弓削守屋大連が手足をぶるぶると震わせながら弔辞を奉った。
馬子宿禰大臣は咲(わら)って、鈴をつけるとよろしかろう、と言った。このことにより、この二人は次第に怨恨を抱き合うようになる。
三輪君逆は、隼人を殯宮の庭に配備した。
穴穂部皇子には天下をうかがう野心があった。
「なにゆえ、死した王の庭に仕えてこの生ける王に仕えようとしないのだ」
彼は憤ってそう言い放った。
挿絵:歳
文章:水月
日本書紀「敏達天皇(3)」登場人物紹介
<蘇我馬子>
蘇我稲目の子。大臣。仏法を篤く信仰する。
<物部守屋>
物部尾輿の子。大連。疫病の原因は仏法であると考え、これを排除しようとする。
<善信尼・禅蔵尼・恵善尼>
日本最初の尼僧。馬子の庇護を受けるが、排仏派によって辱められる。
<敏達天皇>
第30代天皇。欽明天皇と皇后石姫の子。
<橘豊日皇子>
皇太子。欽明天皇と蘇我堅塩媛(蘇我稲目の娘)の子。
<穴穂部皇子>
欽明天皇と蘇我小姉君(蘇我稲目の娘)の子。