平家一門が栄華を極める中、とうとう平家一門に対し、源氏一門の反逆が始まる。


源氏揃

蔵人衛門佐定長が今度、天皇に御即位される御子(のちの安徳天皇)について、その素行や所作が乱れたり違ったところがなく、堂々としていてご立派であらせられた様子を鳥の子紙十枚ばかりにこと細かに書き記して入道相国(平清盛)の北の方(この場合は後妻)の八条の二位殿に差し上げると二位殿は笑みをたたえて大層お喜びになりました。このように平家一門においては華やかでおめでたきことがありました。しかし、人の心は表面上では穏やかでも水面下では不穏な気配を漂わせておりました。
その頃、後白河院(安徳天皇の父方の祖父)には第二皇子に以仁王という方がおりました。この方は三条の高倉にお住まいになられておられたので「高倉の宮」と称されておりました。この高倉の宮の御母君は、かつて栄耀を極めた藤原北家の流れを汲む加賀大納言藤原季成卿の御娘でして血筋としても申し分のない貴い産まれの御方でございます。高倉の宮はご筆跡も立派にあそばし、ご学問もすぐれておられましたので、てっきり位にもおつきになられれるものだと思っておりました。しかし、故建春門院(入道相国(平清盛)の北の方(二位殿)の姉妹)の御妬みの為に、高倉の宮は永万元年十二月十六日、御年十五でこっそりと近衞の大宮の御所で元服なされ、三条の高倉宮に押し込められてしまわれました。
以降、高倉の宮は満開の花を眺めながらの春の遊興には筆をふるって御自作の詩歌を書き、月の前の秋の宴には、笛を吹いて自ら優雅な音楽を奏でられました。こうして、日夜を過ごしておられるうちに時間は過ぎてゆき、治承四年には御年三十になっておられました。
その頃、近衞河原に住んでいた源三位入道頼政が、ある夜ひそかにこの宮の御所に参ってこられ、それはもう大層恐ろしく大変なことを高倉の宮に申し上げたのです。
「君(高倉の宮)は天照大御神の四十八世の御子孫で、神武天皇から数えて第七十八代にあたられております。君におかれましては、太子にもなり、皇位におつきになるべきですのに、三十まで宮にいらっしゃることを残念だと思いませんか。今の世の中の様子を観ておりますと多くの者はうわべでは平家一門に従っているようですが、心の内では傍若無人で横柄な振る舞いをする平家をどうして憎まぬ者がありましょうか。平家討伐のご謀反をお起こしになって、平家を滅し、際限なく鳥羽離宮で幽閉されておられる法皇(高倉の宮の父・後白河院)の御心もおなだめ申し、君も皇位におつきになるべきです。これが御孝行の至りでございましょう。もし、ご謀反を君が思い立たれて令旨をお下しになるのでしたら、喜んで馳せ参ずる源氏どもは多くあります」と申し上げ、たたみかけるように言葉を続けました。
「まず、京の都には、出羽前司光信の子ども伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者光能。熊野には、故六条判官為義の未子の十郎義盛が、隠れています。摂津国には、多田蔵人行綱がおりますが、新大納言成親卿の謀反の時、一味に加わりながらも裏切り忠して平氏に密告した不都合者ですから、申すまでのこともありません。しかしその弟、多田二郎朝実。手島の冠者高頼、太田太郎頼基らは喜んで馳せ参ずることでしょう。
河内国には武蔵権守入道義基、その子、石河判官代義兼。大和国には、宇野七郎親治の子ども、太郎有治、二郎清治、三郎成治、四郎義治。近江国には山本、柏木、錦古里。美濃・尾張には、山田二郎重広、河辺太郎重直、泉太郎重光、浦野四郎重遠、安食次郎重頼、その子の太郎重資、木太三郎重長、開田判官代重国、矢島先生重高、その子の太郎重行。甲斐国には、逸見冠者義清、その子の太郎清光、武田太郎信義、加賀見二郎遠光、同じく小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定。信濃国には、大内太郎維義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、その子の四郎義信、故帯刀先生義賢の次男、木曽冠者義仲。伊豆国には流人の前右兵衛佐頼朝。常陸国には信太三郎先生義憲、佐竹冠者正義、その子の太郎忠義、同じく三郎義宗、四郎高義、五郎義季。
陸奥国には、故左馬頭義朝の未子の九郎冠者義経。これらは、みな六孫王経基(源氏の始祖源経基)の子孫であり、多田新発満仲の子孫です。朝敵を滅ぼして、立身出世の望みを叶えるために数多の手柄をあげ、功績は源平どちらも優劣がなかったのに、今では両家の間に雲泥の差が生じ、平氏と源氏は主従の関係よりも劣っています。国にあっては国司に隷属し、荘園では預所で召し使われ、公用雑用に追い立てられて、おちおちしてもいられません。現状を源氏の者どもはどれほど口惜しく残念に思い心を痛めていることでしょう。君がもし、謀反を思い立たれて、平家討伐の令旨を下さるのなら、彼らは昼夜兼行で都へ馳せ上り、平家を滅すことに多くの日時を要しません。この入道(源頼政)も歳こそとっておりましても、我が子ともどもを召し連れて高倉の宮の味方をする為に馳せて参りましょう」と申されました。

高倉の宮は源三位頼政の申したることをどうしたものだろうと思って、しばらくはご承知にもなられませんでしたが、阿古丸大納言宗通の孫で、備後前司季通の子の少納言伊長という者はすぐれた人相見であったため、当時の人からは相少納言と呼ばれておりました。その伊長がこの高倉の宮の人相を拝見して、「即位なさるべき人相がおありになります。天下のことをおあきらめになるべきではありません」と申したうえにさらに源三位入道頼政の、このように申されたので、「それはそうなるにちがいない、天照大神のお告げであろうか」といって、着々と謀反の計画をお立てになられました。
高倉の宮はまず、熊野にいる新宮十郎義盛を呼んで、蔵人になされました。彼は十郎義盛を言う名を行家と改名して、令旨の使いに任じ東国へと下りました。
前年(治承四年)四月二十八日、行家(十郎義盛)は都を発って近江国をはじめとして、美濃・尾張の源氏どもに次々に令旨をふれてひろめてゆくうちに、五月十日、伊豆の北条に下着し、流人の前兵衛佐殿(源頼朝)に令旨に差し上げました。義盛の兄である信太三郎先生義憲にも令旨を与えようというので、常陸国信太浮島へと下しました。木曽冠者義仲は行家(十郎義盛)の甥だから与えようというので、東山道の信濃国へと赴きました。
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その頃、熊野には熊野別当(熊野三山のまとめ役)をしている湛増という者がいました。湛増は、平家に深く心を寄せていた者でしたが、どこで漏れ聞いたのでしょうか。「新宮十郎義盛(源行家)が高倉宮の令旨をいただいて、美濃・尾張の源氏どもにふれ回り、軍勢を集め、いよいよ平家に謀反を起こすそうだ。那智・新宮の者どもは、きっと源氏の味方をすることだろう。湛増は、平家の御恩を大層深くこうむっているから、どうして平家の御世にお背きすることができるだろうか。平家へ報いる為にも謀反など愚かなことを考えている那智(熊野那智大社)と新宮(熊野速手大社)の者どもに、矢の一本でも射かけて、平家へ報せよう」といって、武装した者ども一千人が新宮の近くにある湊へと向かって出発しました。
しかし、新宮では、島井の法眼、高坊の法眼、侍では宇井、鈴木、水屋、亀甲。那智では執行法眼以下、全部でその軍勢二千余人が集まっていたのでございます。
そうして、集まった那智の者と新宮の者たちが鬨をつくり、那智・新宮軍と熊野別当湛増が率いる本宮軍の矢合せ(合戦の始まりに両陣営から矢を敵陣営に射かけること)することとなりました。源氏のほうではああ射た、平家のほうではああ射たといって矢叫びの声の衰える時もなく、鏑矢の鳴り響く音がやむ暇もなく、那智・新宮軍は三日の間戦ったのでございます。
熊野別当湛増は家の子郎を多く討たれ、自らも負傷し、やっとのことで命拾いをして、本宮へ逃げ帰ることとなったのでございます。


挿絵:時雨七名
文章:八嶋ことは(ゲスト)


平家物語「源氏揃」登場人物紹介

<高倉宮>
以仁王。後白河の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促す。
<源頼政>
高倉宮に平氏打倒を勧めて兵を挙げる。