入鹿の疑心によって人質となった鱶七。そんな男のもとに、侍女たちが代わる代わる見物に来る。
[官女の嘆き]
「ああこれ、オラを人質に取ると、着物や道具と違うて、質草(質屋に置く品物)が飯を食うぞ。しかしあの腹立ちよう、並のことでは食わせまい。おお、空きっ腹にいまの酒で、かなり酔いが回ってきたわい。どれ、どこでなりと、ひと眠りやってこまそ」と鱶七は御殿にのし上がる。
「ええい、腰が重いはずよ。この大小、役にも立たぬものを差してよこして、まったくもって面倒な」
鱶七が縁側にカタリと投げた刀の音を、伏兵たちは襲撃の合図と勘違いして、群生するススキのように多数の槍が突き出される。それに構わずころりと肘枕をする鱶七は、なんと不敵な男であろう。
御所から外へ出たことのない宮中の女房たちが、入れ替わりに男を見物に来る。お茶よ、お菓子よ、煙草盆と気を使い、銚子、盃まで持ってきて、鱶七に差し置く。
「何の用で召し寄されたのかは知らないけれど、長く待たされてさぞ気詰まりでしょう。どうぞ、九献(酒。女房詞)をひとつ」
鱶七は寝返りを打って、腹ばいになり、頬杖ついて女房たちをしげしげと眺める。
「ふん、あんたたちは誰様じゃ」
「我々は上様の身近く召し使われる者」
「なんじゃ、短い女じゃと。どれどれ、なるほど、どれもよう装束に首がめり込んだものじゃ。わいらはここの飯炊きじゃな。しかし奇妙な前垂れをしておる」
「まあ、馬鹿げた冗談。我らを問うそなたの名は」
「おお、鱶という」
「鱶、とは」
「商売の夜網に出ると、沖でも磯でも行き当たりによう寝るので鱶七という。漁師よ、漁師」
「料紙とは、何ぞ書いてくれるのか。絵や歌は嫌じゃ。それならばいま難波津でもてはやされる歌舞伎役者の、文七や八蔵の紋なら書いてほしい」としどけない。
桜の局が鱶七にすり寄る。
「して、下々の者は皆、そなたのような男か。よい男もたんとおるであろ。地下(じげ)のおなごは羨ましい。芝居は見次第、よい男は持ち次第。ほんにまあ、御所女ほどつまらぬものはない、見ても見ても冠装束。窮屈で急な逢瀬の場でも、やれ着物の紐や、上帯やと、解くかほどくか、よほどのことがなければ下紐まで手が届かず、そうしているうちに邪魔が入り、ままならぬまま不本意な別れになってしまう」
桜の局の言葉に、紅葉の局が頬を赤らめ、
「中将や少将あたりと恋をすれば、あの冠の老懸が邪魔になって、尻目使いもできぬ。さらに、嫉妬の上の喧嘩も、こちらが檜扇で叩けば、あちらは笏で止め、意地を張って息巻いたばかり。触ってもみない逆鉾の雫や情けも受けてみたこともなく、いらいらして暮らすより、いっそ死んだほうがマシというもの。もし誘う男があれば靡きたいわの」と、ふたりはひしと鱶七に抱きつく。
鱶七は驚き憤り、「ええい、けったいな女たち。あっちにさっさと失せやがれ」と、けんもほろろに言い散らす。
「なんてすげない恋知らず。色気のない間抜け男、無骨者」と女房たちは腹を立て、不満げに奥へと入っていった。
鱶七は辺りを見回し、長柄の酒を庭の千草に注ぎかける。すると、草はたちまちに枯れしぼんだ。
「さきほどの槍に、この毒酒。たいそうな用心であることよ」
すると庭先から、弓と矢をつがえた取り巻きを連れて、宮越玄蕃が現れた。
「不心得の面魂め。尋ね問うべき仔細ありにて引っ立てよとの綸言である、はよう参れ」
「おお、呼びに来ずともこっちから行くのじゃ。かりそめにもちょこまかと。ちょっとでも触ってみよ、腰骨踏み折って疝気の虫と生き別れさすぞ。家来ども、さん、お前様らもその弓を射たが最後、とっつかまえて首根っこ引き抜いて、片っ端からぬたにしやるぞ。それ、オラから先に行きやんしょ」と、事とも思わぬ大胆者。胸も剛毅さは、張りの強い弓矢隙間なく構えられた矢を引き開けて入ってゆく。
挿絵:歳
文章:くさぶき
妹背山婦女庭訓「御殿の場(3)」登場人物紹介
<鱶七>
漁師。鎌足の名代として、入鹿のもとに現れる。
<宮越玄蕃>
蘇我家の家臣。