平重盛は他界後、人々から燈籠大臣と呼ばれた。その由縁が語られる。続く「金渡」では後世に続く自身の供養を願い、宋国へ使者を遣わせる。


【灯炉之沙汰】
総じてこの大臣は、現世の罪障を滅し、死後の善報を生み出すという減罪生善の御志が深かったので、来世の浮き沈みを憂慮して、東山の麓に六八弘誓の願になぞらえて、四十八間の精舎を建て、一間に一つずつ、四十八間に四十八の燈籠をかけられたので、九品の台が目の前に輝き、光は鸞鏡を磨いて、浄土の場所に臨んだようである。
(六八弘誓→ろくはちぐぜい 九品→くほん 鸞鏡→らんきょう)
毎月14日、15日を定めて、当家である平家や他家の人々の御方より、見目麗しく若い女盛りの女房たちを多く招き集め、一間に6人ずつ、四十八間に288人、念仏を唱える者に定め、この両日の間は一心不乱の称名を唱える声が絶えない。まことに阿弥陀や菩薩が来迎し、衆生を極楽へ導くといわれる来迎引摂の悲願も、この所に影向を垂れ、阿弥陀が衆生を救済して捨てぬという摂取不捨の光も、この大臣を照らされると思われた。

15日の日中を結願として、大念仏が行われたが、大臣自らの行道の中に交わって、西方に向かい、
「南無安養救主弥陀善逝、三界六道の衆生を、あまねく済度したまへ」
(極楽浄土におわす仏教の教主阿弥陀様、あらゆる世界におります衆生を、あまねくお救いください )
 と、自分の修めた功徳によって自他ともに救済される旨を発願されたので、見る人慈悲を興し、聞く者感涙をもよおした。このようなことから、この大臣を燈籠の大臣と人は申した。

【金渡】
また、大臣は生前、
「我が国では、いかなる大善根を行ったとしても、子孫が続いて弔ってくれることは滅多にない。他国にいかなる善根でもして、後世を弔ってもらいたい」
 といって、安元(1175年-1177年)の頃、九州から妙典という船頭を上京させ、人払いをして、御対面になった。金を3500両取り寄せて、
「お前はたいそう正直の者であるというので、5百両をお前に与える。3千両を宋朝へ運び、育王山へ参って、千両を僧に引き渡し、2千両を皇帝に献上し、田代を育王山に寄進して、我が後世を弔わせよ」
と仰った。
妙典はこれを頂戴し、万里の煙浪を乗り越え続けて、大宋国へ渡った。育王山の住職、仏照禅師徳光にお会いし、このことを申し上げると、大いに喜び感嘆して、千両を僧に引き渡し、2千両を皇帝に献上し、大臣の申されし旨を、詳細に奏上されたので、皇帝も大いに感じ入られて、5百町の田代を育王山に寄進された。そのような経緯から日本の大臣、平朝臣重盛公が後世に極楽往来されるよう祈ること、今に至るまで絶えないということである。


挿絵:雷万郎
文章:松


平家物語「灯籠の沙汰、金渡」登場人物紹介

<平重盛>
平安末期の武将。清盛の長子。通称「小松殿、小松内府」と呼ばれ、謹直で武勇に優れていたという。また、信心深かった。1179年病没。
<徳光>
拙庵徳光(せったんとっこう・とくこう)。宋代の臨済宗の僧。南宋の孝宗帝より仏照禅師の号を賜った

<注釈兼読み方>
・灯炉之沙汰・
滅罪生善→めつざいしょうぜん  善報→ぜんぽう。仏教用語。
来迎引摂→らいごういんじょう  摂取不捨→せっしゅふしゃ
六八弘誓→ろくはちぐぜい。阿弥陀仏の四十八願(しじゅうはちがん)のこと。
鸞鏡→らんきょう。中国の想像上の鳥、鸞鳥の形を背に刻んだ鏡。
九品の台→九品は「くほん」、台は「うてな」と読む。
 正式名は九品蓮台(くほんれんだい)。極楽浄土に往生するときに座る台。
結願→けちがん。
 日数を定め、その期間内に願立てや修法(ずほう)を行ったときの最終日。
発願→ほつがん。神仏に願うこと。
 仏教用語としては、悟りを得て衆生の救済を決意すること。
三界→さんがい。仏教用語。仏教の世界観。
 人々が生まれ、また死ぬ、迷いの世界。欲界、色界、無色界の3種。
六道→ろくどう。衆生(しゅじょう)が生死を繰り返す世界。
 地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道がある。前3つを三悪道、あとの3つを三善道という。
・金渡・
善根→ぜんこん、ぜんごん。仏語。よい報いを招くことになる行為。
船頭→せんどう。
田代→たしろ。田となっている土地。田地とも。
育王山→阿育王山(あいくおうざん)のことか。
宋朝→中国、宋の朝廷。
 宋は960年-1279年まで存在した王朝。北宋朝と南宋朝に大別される。
万里の煙浪→ばんり。煙浪は「えんろう」、煙波(えんば)に同じ。
 万里は「非常に遠い」という意。煙浪もとい煙波は「もやの立ち込めた水面、または水面が煙るように波立っているさま」を表す。