家主と杉酒屋の母親は、淡海詮議のため出て行く。そこへ、求馬を訪れる薄衣姿の女性の姿があった。
杉酒屋の場
日没になり、周囲の店も戸を閉める時刻になった。子太郎は灯りをともし、表の戸やあちこちの夜の支度をしている。すると、こちらの道へ歩み寄る振袖の女性。誰かは分からないが袖の香は気高く、白絹の小袖を頭に被り、顔を隠す姿は優雅である。
子太郎が様子をうかがっていると、隣の軒から咳払い。声の主の求馬は「今夜はなぜ早く来なさったのです。さあ、どうぞこちらへ」と、その後は言わず語らず、女性の手を取って戸を閉めた。
子太郎は不審顔で隣の門口に耳を当て、聞きすまして立ち戻る。
「隣の烏帽子は、俺と違ってすごい女たらしのようだ。あいつのご立派な烏帽子で、あの美女を抱くに違いない。お三輪さんに聞かせたら、えらいことになるぞ。まったく手の早いやつだ」
子太郎がそうつぶやいていると、お三輪が寺子屋から戻ってきた。子太郎は足早に門口に入り、
「おっと、お三輪さん、戻られたか。ああ、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
「まあ、なんです、びっくりした」
「それどころじゃないですよ。これから、あなたに忠義を立てて聞かせたいことが」
「忠義って、なんのことです」
「忠義とは忠臣(注進)のことでサ」
「いえ、その忠臣は知ってますけれど。それがどうしたっていうんです」
「その忠臣(注進)というのは、あの、隣の烏帽子なんですが」
「隣の烏帽子って、求馬さんのこと?」
「ええ、求馬。その求馬のことです。うちのおかみさんは、家主殿に用があって行かれたんですけど。そのあと、なんだか知らないが真っ白な絹をかぶった、幽霊かと思ったら美しい女が、隣の門口を叩いたんです。そしたら求馬さんが出てきて、よくいらっしゃいましたと、手に手を取って内に入って行かれた。それから、俺がじっと聞いていたら、ちょうどうちの雇い人たちが朝に酒桶を洗うような、シイシイという音がしたんですよ。あれは求馬さんが竹簓(ささら。洗具)でこするものと見える。ねえ、お三輪さん。これは黙っていられないでしょうが」
「それならなに、求馬さんのところに美しい女性が来て、その女性と入っていったというの」
「へえ」
「ちょっと納得行かないわね。ちょうど母様も留守だから、あなた行って、求馬さんをここに連れてきてちょうだい」
「おう、合点承知した」
子太郎は走り出て、隣の門を破れんばかりに打ち叩き「これ求馬さん。隣の酒屋から使いに来た。印鑑を持って出てらっしゃい」と口から出まかせを言った。求馬は驚き、何事かと外に出る。子太郎は、まあまあこちらへと無理に手を引いて、自分の家の中へと連れて行く。
求馬の姿を見ると、娘のお三輪は顔を赤らめる。
「求馬さん、お帰りになったんですね」
「これはこれはお三輪さん。寺子屋に行ってらしたと伺いました」
と、お互いに意味ありげな挨拶を交わす。
「さあ、俺の役目はここまでだ。とことん話し合いなさい。俺は気を利かせて、夜食にでもありつこうか。ではおふたりさん、また後ほど」
子太郎はそう言うと、納戸へ走っていった。
残された2人は話を続けることもできず、世間知らずの娘は思い詰めた一途な気持ちを伝えようとすると胸につまり
「いま、子太郎に聞いたのですけど。なんでも美しい女性が、宵からあなたのところに来ているそうですね。それは隠し妻なのでしょう。あなたと私の仲は、会うのもたまにしかないけれど、千年万年も変わらぬ契りとおっしゃいましたよね。あの約束は嘘ですか。男女の機微もわきまえない田舎育ちの私でも、交わした言葉は忘れません。あまりにひどいじゃありませんか」
と、お三輪は求馬に取り付いて、涙ながらに恨み言つ。
「どうやら誤解があるようだ。たしかに女性はいらしてますが、あれは春日の巫女殿。連れ合いの禰宜殿に烏帽子をあつらえるために訪れたのです。美女どころか、どんな天女が降臨したとしても、心変わりなどありえません。和歌三神に誓って、偽りは申しませぬ」
求馬はとっさのごまかしでお三輪を落ち着かせる。世間知らずのお三輪はわだかまりが解けると、「神様にまで誓っていただいて、私も心が落ち着きました。決して心変わりなさいますな」と立ち上がり、七夕に供え祭った2つの苧環(おだまき。糸巻き)を持ち出し、求馬の前に置いた。
「寺子屋のお師匠様に聞きました。殿方の心が変わらないようお星様に祈るには、白い糸、赤い糸、苧環に針をつけ、結び合わせて祭るのだとか」
「それがすなわち、願いの糸の乞巧針(きっこうしん)ございます」
「あなたもよくご存知の様子。白い糸は殿方、おなごは赤い糸。私もこれに願いを込めようと思います。寺子屋で見た本の中に、心をかけた女の歌がありました。ええと、なんだったかしら。ああそうだ。『恋ひ渡る思いはちゞに結ぼれて幾代願ひの糸の苧環(あなたを思い続ける私の想いはあれこれともつれ、苧環の糸のように幾夜も長く2人が結ばれるようにと願います)』」
「その男の返歌は『逢ひ見ての後も願ひの糸筋をよそへ乱すな君が苧環(契りを交わした後も、あなたがかけた願いの糸筋をよそへ乱さず、決して浮気しないでください』ですね」
「ええ、ええ、そうです。いつまでも変わらぬ証しに、赤い糸をあなたに、白い糸を私が持ちます」
2人の契りもそうであるようにと願う長い糸。夫婦の約束として、織姫と彦星の逢瀬を仲立ちするカササギならぬ苧環を永遠の仲立ちに取り交わし、肌につけ合う深い縁。
求馬の家から例の女が歩み出る。こちらの門口から「隣の烏帽子折さまはこちらにいらっしゃいますか。ごめんください」と内へ入る。その姿に求馬は間の悪い心地になるが、お三輪は気づかない。
「ああ、あの人がいま話していたお方ですか」
「ええ、あれが巫女殿です。それで薄絹をお召になっていらっしゃる。なあその、あなた様はお連れ合いの烏帽子をあつらえにいらっしゃった、そうでございましょう。ええ、そうでございます」と求馬は紛らわせる。
挿絵:望坂おくら
文章:くさぶき
妹背山婦女庭訓「杉酒屋の場」登場人物紹介
<其原求馬>
烏帽子折(烏帽子を作る職人)
<お三輪>
三輪の里にある杉酒屋の娘。近所に住み始めた其原求馬と恋仲になる。
<子太郎>
杉酒屋の丁稚。