白河法皇がまだ天皇であったころ、中宮賢子との間に皇子を望み、僧・頼豪に、何でも望みをかなえてやると言い含め祈祷をさせた。祈祷のかいもあり、無事に皇子が生まれたが、天皇が頼豪の望みをかなえなかったため、頼豪は憤死して怨霊となり皇子をとり殺した。


頼豪
白河天皇がまだ天皇でいらっしゃった時のこと、京極大殿・藤原師実の娘が后になり、賢子の中宮と呼ばれ、天皇の寵愛を受けていた。
 天皇は、この中宮との間に皇子が生まれることを願い、そのころ効験あらたかな僧として有名であった三井寺の頼豪阿闍梨を呼び出して、「お前、この后の腹に皇子が生まれるように祈祷をいたせ。この願いが叶ったら、その褒美はお前の願うままにしよう」と仰った。「たやすいことでございます」と、頼豪は三井寺に帰り、さっそく百日の間、精魂をつくして祈祷した。すると、中宮はすぐ百日の内にご懐妊され、承保元年十二月十六日に無事、皇子が生まれになった。
 帝はたいそうお喜びになって、頼豪を呼び出して、「お前の願いを叶えよう」と仰ったので、頼豪は、三井寺に戒壇を設けることを願った。
 天皇は、「これは法外な望みだ。阿闍梨から僧正への特進などを願うと思っていたのだが。だいたい皇子が生まれ皇位を継がせようとするのも、天下太平を思うからである。今、お前の望みが叶ってしまったら、山門(延暦寺)の僧たちが激怒して、世の中が騒々しくなるであろう。山門(延暦寺)と寺門(三井寺)とが合戦となり、天台の仏法は滅びてしまうだろう」と言って、許さなかった。

 頼豪は口惜しいことだと、三井寺へ帰って、断食をして死のうとした。これを聞いた天皇はたいそう驚き、太宰権師・大江匡房(そのころは美作守であった)を呼び出して、「お前は頼豪とは師僧と檀那の関係だそうだから、行ってなだめてみろ」と仰ったので、美作守は天皇の命により頼豪の宿坊に出向き、天皇の言葉を伝えようと試みたが、頼豪はもくもくと護摩の煙の燻った持仏堂に籠もって、恐ろしい声で、「天子には戯言はない。綸言汗のごとしと承る。この程度の所望が叶わないということは、我が生み出した皇子であるので、奪い返して魔道へ行くつもりだ」といって、とうとう対面も叶わなかった。
 美作守は帰参して、天皇にこのことを伝えた。頼豪はまもなく餓死した。天皇は、どうしたものと驚きになっている。そうこうしているうちに、皇子はまもなく病気になってしまった。いろいろな祈祷が行われたがまったく効き目がない。
 白髪の老僧が、錫杖を持って皇子の枕元に佇み、それが人々の夢にも見え、また目覚めているときでも幻として現れた。恐ろしいなどというようなものではなかった。
 そのうちに、承暦元年八月六日、皇子は御年四歳でとうとうお亡くなりになってしまった。これが敦文親王である。天皇は、それはそれはお嘆きになった。
 延暦寺から、西京に住む天台座主・良真大僧正、そのころは円融房の僧都といって、効験のある祈祷をする僧と評判の方を、天皇は、また内裏へ呼び出して、「どうすればよいだろうか」と問うた。「このようなご祈祷は、いつも我が比叡山の力によってこそ成就するものでございます。九条右大臣・藤原師輔が慈恵大僧正に恩賞を約束し、お頼みになったからこそ、冷泉天皇となられた皇子が生まれました。たやすいほどのことでございます」といって、比叡山に帰り、山王大師に百日、心を尽くして祈ったので、中宮は、百日の内にご懐妊され、承暦三年七月九日に無事、皇子が誕生した。堀河天皇がこの方である。怨霊は昔も今も恐ろしい。
 これほどめでたい御産に非常の大祓が行われたが、俊寛僧都一人が赦免されなかったのは、気の毒なことである。
 治承二年十二月八日、皇子は東宮にお立ちになる。東宮博には小松内大臣、東宮大夫には池の中納言(平)頼盛卿ということであった。


挿絵:歳
文章:黒嵜資子


「頼豪」登場人物紹介

<白河天皇>
第72代天皇。院政をはじめる。
<大江匡房>
儒学者、歌人。藤原伊房・藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。