勘気を許されると安心したのもつかの間。お尋ね者を匿った疑いで、芝六は役人に連行される。
芝六は後ろにさし寄って
「仰せつかっていた爪黒の雌鹿のことです。近辺の山々を探しても見当たらなかったのを、昨日ようやく見つけ出し射止めました。乳の下の血潮を絞り、壺に用意してあります」
「おお、大儀であった。貴重な鹿が手に入ったのは、ひとえにそなたの忠義のおかげだ。父の内大臣鎌足は、入鹿の乱を早くから察し、罪もないのに身を退いた。興福寺の裏の山上に籠り、帝のご病気平癒のために百日間祈っている。そして今日が満願の百日目。
帝がこの家におられることはさきほど伝えた。明日の暁六つの鐘(午前6ごろ)を最後に、ひそかにここへ来るであろう。その時こそ、そなたの勘気も許され、あらためて元の家来・玄上太郎利綱となる」
「ああ、ありがとうございます。これで長年の願いが叶うというもの。浮木の亀といいましょうか、優曇華といいましょうか、やっとめぐりあえたこの好機。いっそう鎌足公へのおとりなしをお願いいたします」
「おお、心配するな」
と主従の仲は親密であった。中臣氏は庶民に落ちても公家の心を忘れず、穢れない藁の御殿へ入っていった。
その様子を聞いていた女房は嬉しくも気がかりで「くたびれたでしょう」と立ち寄り、
「ねえ、あなたに聞きたいことがあります。今朝の噂で。まあお聞きになって。ご禁制と知りながら春日の雌鹿を射殺した者がいるとかで、厳しい捜査があるそうです。まさかとは思いますが、万が一あなたが過ちを……」
夫を思い、それとなく心中を探る。雌鹿には覚えがあるので、芝六はぎくりとした。
「ははは、とんでもない。春日の鹿を殺すのは禁忌だと赤子でも知っている。石子詰め(生きた罪人を穴に入れ、小石を詰めて埋め殺す刑罰)にあうことを知りながら、殺す馬鹿がいるものか。だが鹿はかせぎともいう。おれの稼ぎは質入れだ。貧しい俺が質入れするのはいつものことさ」
と言い紛らわせても、お雉にはまだどこか気がかりが残った。鹿の子斑に消え残った雪を見ながら「なんだかしけてきたな。一杯飲もうじゃないか。母さん、燗をつけてくれ」
と言うが、夫婦間では酔った顔でも納得できず、癪を抑えて中へ入った。
一方、村の連絡事務を担当している庄屋の手代が、表からやってくる。
「興福寺の塔頭から、鹿殺しの犯人は猟師仲間だろうということになった。仲間内で調べて罪人を告発すれば、褒美をくださるとのお触れだ。早く庄屋どののところへ来るといい」と言い捨てて帰る声が三作の耳に入り、はっとして
「もし父様の身に詮議がかかったらどうしよう」と幼心で健気に案じ、侘住いの手習文庫から破れ双紙と筆を取り出した。筆を口で湿らせ、七ついろは(習字の手本)のような清書の文章を書いていると、わんぱくな弟がやってきた。
「兄様、さっきの箱をくだされ。くれないと、ほら、こうじゃ!」と筆をひったくるが、身内の弟は可愛らしく
「ああ、それもあげるけど。杉松、兄の頼み事を聞いてくれるか。この手紙を持ってな、興福寺の門を叩いて、寺中へ差し上げますと言って渡してきてほしいんだ」
「そしたらなにか駄賃をくださるのか」
「ああ、あげるとも。駄賃には春日野の火打焼(春日大社前で売られていた菓子)を買ってあげよう」
「また嘘でごまかすのではないか」
「いやいや本当だ」
「じゃあわかった、行ってくる」
と言いくるめられる弟、言いくるめる兄。
実際の歳より賢すぎる杉松が手紙を懐に入れ、ちょこちょこ走っていくのを見送る。兄が筆で器用に書き残し、白地の紙でないのが仇になると、神ならざる身には知る由もなかった。
ちょうどその時、表にこそこそと様子をうかがう捕手の侍がいた。「それ」と掛け声とともに駆け入り、奥へと走ってゆく。その奥から芝六が駆け出る。
「待て待て。人の家へなんと理不尽に無作法この上ない。ああ、分かったぞ。あなた方は鹿奉行のお手下ですな」
「いいや、入鹿大王より遣わされた取り調べの役人だ。この家に匿っている者があるだろう。隠さず白状せよ」と威圧するが、芝六はびくともしない。
「はあ、なんのことかと思えば。私のような貧乏狩人も、それなりの蓄えが必要です。それをお取り調べとは、お侍様も大げさだ」
「とぼけるな。匿い置いているのは、お尋ね者の天皇、そして鎌足の倅・淡海だろう。どうしても知らぬと言うのであれば、こうだ」と役人はそばに居合わせた三作を捕まえた。引き寄せ、刃を胸に差付ける。
人質を取られ「さあ、どうだ」と迫られ
「まあまあ、お待ち下さい。なにもかも白状いたしましょう。ですがここでは申せませぬ。大庄屋の方まで参り、詳しく白状いたしましょう」
「ならば早く、さあ歩け」
「はいはい。これ三作、お前は戸を占めて、母さんに気をつけるよう言って来い。さあ、お役人さま」と、芝六は危険な状況で一思案しながら、心は家に残して出ていく。
一間で様子を聞いていた淡海が、お雉を呼び出し、
「芝六の本心は忠臣無二と思っていたが、子にほだされて大事を見誤った。拷問にかけられれば、きっと白状するだろう。もう天皇を長くここに置いてはおけない。今宵のうちに山を越え、お供して立ち退こう。皆、ひそかに用意しておけ。私はこのまま芝六の帰りを待ち、もうひと調べしよう」と、鍔元をくつろげ、立ち上がる。
「まあまあ、お待ちになってください」とお雉は駆け出で、手をついた。「お疑いももっともですが、あれほどまでに思い詰め、ご勘気を許されようと心を砕く夫です。なまじ白状する臆病者でないことは、私が一番存じております。
ひとまず帰りをお待ちください。もし怪しげなことがあれば、帝には替えられませぬ、私が切りかけます。そのときに真偽はわかるはずです。それまでは今宵一夜、恐れ多くも私にお預けくださいませ」
「一命を賭してまで頼まれるか。しかし、草も木も我が大君のものであるというのに、いまは草木にも用心せねばならぬこのご時世だ。いざとなれば許しはせぬ。御前へ参って返事を待つ」
と、淡海は用心を解かず、入っていく。間を隔てる戸は破れ障子。その修繕も、無駄にすまいと古紙をかき集めた急ごしらえのものだ。胸中様々な思いの母の心を、三作もともに案じていた。
挿絵:望坂おくら
文章:くさぶき
妹背山婦女庭訓「芝六住家の場(3)」登場人物
<淡海>
藤原鎌足の息子。
<芝六>
猟師。元は玄上太郎利綱といい、鎌足の家臣。
<お雉>
芝六の妻