名高い狩人である芝六は葛籠山の法度を破り、爪黒の牝鹿を射る。


芝六、爪黒を射止める
山手の道からやってきた親子連れは、この辺りで名高い狩人の芝六であった。弓矢を手挟み、息を切らし、人通りの途絶えた木陰に立ち止まり、声をひそめて、
「コリャ三作。この間から夜の狩をしているが、これは渡世の表向きで雇いの勢子(せこ)どもが山手、谷々を方々と駆けまわすこの物音の騒ぎに紛れて、あらかじめお前に言いつけたあの爪黒(つまぐろ)という牝鹿(めじか)は千疋(びき)の内に一疋あるというもの、それを取りたいばかりでこのように苦労をしている。その念力が通ったのか、アノ葛籠山(つづらやま)の向こうの谷間でやっと見つけたその爪黒。アノ猪狩の螺鉦(かいかね)で勢いよく追い立てたら、驚いて向こうの山を越すのはたしかなことだ。お前はこれから谷へまわり、勢子に螺鉦を打ち鳴らさせ、件の鹿を追い出せ、追い出せ」
「オオ心得ました。しかし、これ父様(とつさま)、追い出すのはたやすいことですが、鹿を射ることはこの地の法度。あなたの身に難儀が出来ては、母様(かかさま)や私の身はどうしましょう」
と幼いながら後のことを案じるかしこさは孝行心が見えてあわれである。
「ハテさて気の弱いことを言う。そのことを知られてたまるものか。もし知られたら、運の尽き。命がけなことをするのも、我が身の栄燿(えよう)を望むのではない。所詮この狩人商売は人間のする仕事ではない。せめておまえらに狩人をさせたくもなく、侍にさせようとの思いだけだ。父の身に心配はないので、サアサア早く谷陰へ。おれは別れて麓の方。合点か、ぬかるな」
「心得ました」
と示し合わせて親と子が道は二筋に引き分かれ、山路を目指して急いで行く。
谷山峰に輝かせる数々の松明(たいまつ)や螺鉦の響きに伴う勢子の声に、松の梢に吹く風も騒がしい。

「スワよい頃合い」
と芝六は弓矢をつがえて麓の方、木陰に隠れて待つところへ。
猪を狩り出す山路の騒ぎにともに驚き、駆け来る鹿に、
「件の爪黒、得たりやっ」
と、切って放す矢はし損なわず鹿の咽を貫いて、鹿はそのままそこへ倒れ伏す。
三作は駆けつけて、
「父様、射止めなさったか」
「シイ、声が高い。オオ首尾よく仕留めた」
「エエ父様、どうやら怖くなりました」
と身を震わせて涙声になる。
「ハテぐずぐずと心配するな。人が見ないうちに帰れば済む」
と辺りを見回し、心を配り、鹿をかつぎ、親子連れで家を目指して帰る。

【注釈】
勢子…狩場で鳥獣を駆り立てたり、逃げるのを防ぐ者。
螺鉦…号令や合図に用いる法螺貝と鉦。
鹿を射ることはこの地の法度…葛籠山こと若草山での鹿は、春日大社の神の使いとされている。これを殺したものは罰せられた。


挿絵:ユカ
文章:ねぴ


「妹背山婦女庭訓「葛籠山神鹿殺しの場」」登場人物

芝六…法度を破り鹿を射落した狩人。
三作…芝六の女房・お雉の連れ子。