唐にいる定恵は夢を見た。その夢で亡き父・鎌足から「談峯に寺塔を建てるように」と告げられる。
(定恵霊夢)
唐に滞在している時、定恵和尚は自分が談峯にいる夢を見た。その夢の中で、父・鎌足はこう告げた。
「私はいまこの世を去り、天に上ろうとしている。あなたはこの地に寺塔を建立し、仏道の清らかな業を修めなさい。私はわが霊魂をこの峯に降ろし、後葉(子孫)を守護し、仏教を流布しよう」
(攀登清涼)
塔婆を鎌足の墳墓の上に建てるため、定恵は清涼山を登った。宝池院の十三重塔をモデルにし、霊木(一説には栗木)ひと株をその材木とした。
(定恵留材)
定恵は十三重塔の材木や瓦などを調達して帰国しようとした。しかし船が狭かったため、一重分の材料を置いて海を渡った。
(定恵謁弟)
帰国した定恵は、弟である右大臣・藤原不比等と対面した。大職冠・鎌足公の墓所はどこにあるのか尋ねると、摂津国嶋下郡(のちの大阪府高槻市)の阿威山だと答えた。そこで定恵は、生前の鎌足公と約束したことを告げ、そのときの約言や唐滞在中に見た夢の様子を細かく語った。それを聞いた不比等は信伏し、高い敬意を表して地に頭をつけ礼をすると、涙を流して泣いた。
(掘取遺骸)
定恵は25人を引き連れて阿威山の墓所に行き、鎌足公の遺骸を掘り出した。遺骨を首にかけると、はらはらと涙を落とした。
「私は天万豊日天皇(孝徳天皇)の子であるが、宿世の約束により、藤原の子となった」
そして人々に土を荷なわせ、ともに談山に登った。
(談峯起塔)
定恵は談峯に登ると鎌足の骨を丁重に埋め、その上に塔を建てた。
「材木や瓦がそろわずに、どうして念願を遂げることができよう」と嘆いた。
工事は進み塔が十二重に及んでくると、その嘆息は止むことがなかった。そうしていると、ある夜半に稲妻はしり雷鳴とどろき大雨や大風にみまわれたが、忽然と空が晴れた。明朝見てみると、材木や瓦が積み重なり、その形や色は建設中の塔婆と異なるところがなかった。これらが飛んできたのだと分かると、定恵は感激のあまり地に伏した。まことに不思議な出来事であった。
(妙楽建立)
後年、塔の南に三間四面の堂が建立され、妙楽寺と号された。これは定恵が建立したもので、いまの講堂にあたる。これが多武峰寺の草創である。
(安置霊像)
堂の東にある大樹では、しばしば不思議な光が現れた。定恵はその場所を定めて三丈四方の御殿(いまの聖霊院)を建立し、鎌足の霊像を安置した。仏師は近江国の高男丸である。
(陵山鳴動)
鎌足の御霊が神としてこの峯に降臨して以来、氏長者や一門の重臣、あるいはその領地や関わりのある荘園に凶事がある際は、談峯が鳴動し不思議な光が顕現した。ある時はその光は遠く三笠山まで至り、ある時は三笠山も同じように光を発したという。
(興福伽藍)
元明天皇の御代、和銅3年(710年)3月。鎌足の次男である右大臣・藤原不比等は大和国の平城に、始めて興福寺金堂を建立した。鎌足は生前に入鹿誅殺の成就を願い、一丈六尺の金色釈迦像と脇侍の二菩薩を造像していた。その後、天智天皇8年(669年)10月、鎌足の病状が思わしくない頃、伽藍を構えてその像を安置した。鎌足が死して後、不比等は父の志を叶えようと春日の勝地(ふさわしい場所)を選び、興福寺の伽藍を建立した。鎌足が造像した釈迦像を安置するためだ。
(修維摩会)
興福寺の維摩会は、大職冠内大臣・鎌足の遠忌である。鎌足は三宝を敬う人柄で、仏法を広く普及させることを願っていた。そこで毎年10月、法筵(仏法を説く場所)を荘厳にし、維摩の立派な行いを仰ぎ、無二の妙理を説いた。鎌足が逝去してからは久しく途絶えていた。淡海公・不比等は慶雲2年(705年)10月、城東の屋敷で初めて維摩会を開いた。入唐僧の智鳳を招き、講師とした。慶雲4年(707年)10月には厩坂寺で、新羅の遊学僧・観智に維摩経を講じてもらった。和銅2年(709年)には植槻寺(のちの元興寺)で、浄達法師を講師に招いた。7年になると、維摩会を興福寺で行うようになった。
挿絵:あんこ
文章:くさぶき
「定恵霊夢〜修維摩会」登場人物
<藤原鎌足>
藤原氏の始祖。天智天皇より大職冠と藤原姓を賜る。
<定恵>
孝徳天皇の子であり鎌足の養子。11歳より唐に渡る。出家前の俗名は中臣真人。
<藤原不比等>
鎌足の次男。藤原氏繁栄の礎を築く。