二条天皇の葬送の際、興福寺に侮辱された延暦寺衆徒は何も反抗せず立ち去ります。同二十九日、延暦寺の衆徒は京都に乱入。その際「後白河法皇が延暦寺衆徒に命じて平家を追討させる」という噂が流れーー。


延暦寺の僧侶たちは、狼藉されたことに手向かってもおかしくなかったが、なにか深い考えがあったのか、興福寺に対して一言も反論しなかった。天皇が崩御したことにより心を持たぬはずの草木までもが悲しみ憂いているというのに、こんな騒動を起こすのは情けないことだと、貴賎問わず皆退散した。
同月の29日、午の刻頃、山門の僧侶たちがこぞって都に攻め寄せるという知らせが入った。武士や検非違使たちは西坂本に行き迎えうったが、僧侶たちはそんな守りをものともせず、押し破って乱入してきた。
また、誰が言い出したのか「比叡山の僧侶たちに、平家を追討するよう、後白河院が命じた」という噂が立った。軍兵が内裏に駆けつけ、四方の陣頭で守りを固めた。平家の一族は六波羅に集結し、後白河法皇も急ぎ六波羅に行幸した。
平清盛はその頃まだ大納言の右大将だったが、比叡山をとても恐れて騒いだ。小松重盛は「なにをそんなに騒がれるのですか」と鎮めようとしたが、武士たちは激しく騒ぎたてて収まらない。しかし、延暦寺の僧侶たちは六波羅を襲撃することはなかった。なんとはなしに清水寺へ押し寄せると、仏閣や僧坊をことごとく焼き払ってしまった。
このことで、延暦寺の僧侶たちは、先の葬送のときに受けた屈辱を晴らしたと言われている。清水寺は興福寺の末寺であった。清水寺を燃やした翌朝、「観音火坑変成池はいかに(本尊の観音菩薩は火難から人々を救うというが、今回のことはどうだ)」と書いた札を大門の前に立てた。すると翌日に「歴劫不思議力及ばず(観音の力は人知で測れるものではなく、今回の焼失も人がどうこういえるものではない)」と返しの札が立っていた。
比叡山延暦寺の僧侶たちは山へと帰ったため、六波羅の清盛の元から、後白河院は御所へと帰っていった。重盛だけは警護のために付き添ったが、父・清盛は同行しなかった。依然として用心しているためだろうかと噂になった。平重盛が院の送りから帰ってくると、清盛大納言はこう言った。
「後白河院が六波羅へ御幸したのはとてもおそれ多いことだ。かねてより平家討伐を考え、それを言葉にしていたから、このような噂が立っているのだろう。そなたも院に心を許してはならない」
重盛卿はこう返す。
「このことは決して、決して様子にも言葉にも出してはなりません、他人にそのようなことを感づかれては、かえって状況は悪くなります。院のお考えに背くことなく、人のため情けを施すことが大切です。そうすれば神明三宝の加護があり、父上の身に恐れるものはなにもありません」
そう言って重盛は席を立ったので、父・清盛は「重盛は落ち着きのある立派な者だ」と言った。
後白河院が御所に帰った後、御前に気心の知れたいつも近くに仕えている者たちがたくさん申し上げている場で、院はこう言った。
「それにしても世の中は不思議な噂をたてる。そのようなこと、思ったことすらなかったというのに」
院の周りを取り仕切っている者で、西行というものがいる。ちょうどその時、院の前に控えており、こう言った。
「『天に口はないが、人の口を使ってものを言わせる』と申します。平家があってはならなぬほど過分な地位におりますので、天が慮ったのでしょう」
人々は「こんなことを言ってはよくありません。壁に耳ありといいます。おそろしいおそろしい」と人々はそう言い合った。


挿絵:望坂おくら
文章:くさぶき


「清水寺炎上」登場人物

<後白河院>
第77第天皇。異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った
<平重盛>
平清盛の嫡男。
<平清盛>
平清盛。平安時代末期の武将・公卿。
<西行>
武士であり僧侶であり歌人。