死別に嘆く天智天皇は、山階へと還る鎌足の葬列に参列する。葬儀の場では彼の徳を示す不思議な現象も起き──。
(三八)
ほどなくして、公卿や官人たちは喪が行われる斎場に集まり挙哀の礼を執り行った。天智天皇は司南車・羽葆・鼓吹を用意し、葬列の準備をさせた。
見送りの日、葬列が宮門を通る際には天皇自らが喪服を身につけ、お近くまで歩み寄られた。天皇は勅して轜(今で言う霊柩車)を止めると、それに対面して咽び泣かれた。
未だかつて、今日この日まで、天皇がこれほどまでに恩をかけること、宰相への寵愛が極まることはなかった。見送りに使う道具は、故人の遺言に則り節約することに務め、かねてからの志に従うこととした。
(三九)
こうして庚午(670)年閏九月九日、山階の寺にて鎌足を火葬した。天皇は皇族や公卿たちに勅して葬儀場に集わせた。大錦下紀大人臣に弔辞を述べさせ、贈賻の礼を執り行った。
その時、空中に雲が現れた。形は紫の天蓋のようだった。その上からは管弦の音色が聞こえる。人々はそれらを目の当たりにし、未曾有のことであると嘆いた。

(四〇)
大臣・鎌足は生前三宝を敬い、広めた。毎年十月には荘厳な場を設けて維摩経の法会を執り行い、二つと無い妙理を説いた。また己の家財を元興寺に投じ、五宗の学問を支援した。これにより、賢僧が絶えることなく、仏教の道は興隆した。
(四一)
百済人の小紫沙吒昭明は抜きん出た才を持っており、文章においては冠世の才能であった。彼は鎌足の名が後世に伝わらず、賢徳が空しく散ることを嘆き、碑文を作製した。現在、その銘文は別巻に残されている。
鎌足には貞慧と史という二人の息子がいる。史については別に伝わる話がある。
挿絵:なんか色々
文章:あめ
藤氏家伝「鎌足伝(15)」登場人物紹介
<天智天皇>
中大兄皇子としても知られる。鎌足の死を嘆き、誰よりも近くで葬儀に参列した。
<中臣鎌足>
天智天皇の右腕。病によって亡くなってしまった。
