十市皇女の急死により行幸が中止となる。
新羅からの使者が海難に遭いながらも複数回送られた。
天皇に仕える者たちの人事や規則に関わる詔がたびたび出された。
七年春一月十七日、南門にて天皇の御前で官人たちが射技を披露する大射の行事があった。
二十二日、現在の済州島にあたる耽羅の人が京に来た。
この春、天つ神と国つ神を祭るため国じゅうで大祓を行った。天皇が篭られるための斎宮を、多武峰の山中から発し現在の奈良県桜井市を流れる倉梯(くらはし)川の川上に建てた。
夏四月一日、斎宮においでになろうとして占われた。結果、七日と示された。したがって午前四時ごろにあたる平旦(とら)の刻に、警蹕(けいひつ)が先払いのため出、幾人もの役人が列を成し、御輿には蓋がかけられ、出発しようというときに、十市皇女が突然病にかかられ宮中で薨じられた。このため天皇の行列はすぐに停められ、行幸は叶わなかった。天つ神と国つ神を祭ることも取りやめられた。
十三日、新宮の西庁の柱に雷が落ちた。
十四日、十市皇女を現在の奈良県高畑町とみられる赤穂に葬った。天皇は憐れみとともにこれに臨まれ、声を上げて哀しみを表された。
秋九月、忍海造能麻呂(おしぬみのみやつこよしまろ)が瑞稲を五株献上した。この稲には株ごとに枝があった。このため徒罪以下の者たちは皆赦された。三位の稚狭王(わかさのおおきみ)が薨じた。
冬十月一日、綿のようなものが難波に降った。長さは五、六尺で幅は七、八寸あり、風に乗って松原や葦原でただよっていた。当時の人々は「甘露である。」と言った。

二十六日、「およそ内外の文官も武官も、史以上の位にある官人は、年毎に公平かつ勤勉な者はその優劣を評議の上、昇進に相応しい位階を定めよ。一月上旬より前につぶさに記して法官へ送るように。法官はこれを査定し、大弁官に申し送れ。しかし公務のため使者として出立する日に、本当の病と父母の服喪を除いて軽々に大したことのない理由で公務を辞退する者を昇進させるということはない。」という詔を出された。
十二月二十七日、アトリが空を覆い、西南から東北へと飛んで行った。
この月、筑紫国で地震が起きた。地面が広さ二丈、長さ三千丈あまりに渡って裂け、村々の民家が多数倒壊した。このとき岡の上に民家が一軒あった。地震の起きた当日、岡が崩れてその家が別の場所に移った。しかし家は無事で壊れなかった。家の者は岡の崩壊と家が動いたことを知らなかったが、夜が明けてからこれらを知ってとても驚いた。
この年、新羅が送った使者である奈末加良井山(なまからじょうせん)・奈末金紅世(こんぐせ)が筑紫に着き、「新羅王は汲飡金消勿(きゅうきんこんしょうもつ)・大奈末金世世(こんせいせい)らを使わしました。今年の調を献上するためです。したがいましてわたくし井山を遣わし、消勿らを送りました。われらはともに海上で暴風に遭いました。消勿らは皆散り散りになり、どこへ行ったかわかりません。ただ井山めはどうにか岸へたどり着けました。」と言った。しかし消勿らは遂に来なかった。
八年春一月五日、新羅の使者である加良井山・金紅世らが京に向かった。
七日、「およそ正月の節会(せちえ)にあたり、諸王・諸臣ならびに官僚たちは兄や姉以上の親族、および氏族の長を除いて拝礼をしてはならない。諸王は母といえども、王の姓のものでなければ拝礼をしてはならない。およそ諸臣もまた自分よりも身分の低い母を拝礼してはならない。正月の節会以外であっても、これに準じる。もしこれを守らぬ者があれば、ことに応じて処罰する。」という詔を出された。
十八日、西門で射礼があった。
二月一日、高麗が上部大相桓父(じょうほうたいそうかんぶ)・下部大相師需婁(かほうだいそうしずる)らを遣わし朝貢した。そのため新羅が奈末甘勿那(かんもつな)を遣わし、桓父らを筑紫まで送った。
三日、紀臣堅麻呂(きのおみかたまろ)が卒した。壬申年の功績により、のちの官位では正四位にあたる大錦上の位を贈られた。
四日、「再来年に親王・諸臣、および官僚の武具と馬の検査をするので、あらかじめ備えておくように。」という詔を出された。
この月、大恩を下され貧者を憐れむため、飢えと寒さをしのぐものを賜った。
三月六日、兵衛大分君稚見(とねりおおきだのきみわかみ)が死んだ。壬申年の大役で、先鋒となって瀬田の陣営を破った。このため外小錦上の位を贈られた。
七日、天皇は現在の奈良県高取町にあたる越智に行幸され、斉明天皇陵である後岡本天皇陵を拝礼された。
九日、吉備大宰石川王(きびのおおみこともちいしかわのおおきみ)が病のため吉備で薨じた。天皇はこれを聞いてとても悲しまれ、憐れみの言葉を下され云々(しかじか)と仰せになり、諸王二位の位を贈られた。
二十二日、貧しい尼僧に絁(ふとぎぬ/現在の平絹にあたり質の低い絹とされた)・綿・布を施された。
夏四月五日、「食封を有している各寺の由緒を検討し、加えるべきであれば加えて、除くべきであれば除くように。」という詔を出された。この日、各寺の名称を定めた。
九日、広瀬の大忌神と竜田の風神を祭って治水と豊作を祈願した。
挿絵:さざちか
文章:うら
日本書紀「天武天皇(13)」登場人物紹介
<天武天皇>
第40代天皇。生没年?-686年、在位673-686年。
大海人皇子。和風諡号は天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)。
壬申の乱を起こし、近江朝を滅ぼして即位した。積極的に治世を行い、数々の制度を定めた。
