斉明天皇が朝倉行宮で崩御。中大兄皇子は素服で称制し、水陸二路から高麗を攻める。
(二六)
人の寿命には限りがある。斉明天皇は 朝倉行宮(臨時の離宮) で崩御された。皇太子・中大兄皇子は 素服(白喪服) のまま 称制(天皇の名で政務を代行すること)を執り行われた。
同じ月(斉明七年〔西暦661〕七月)、唐の名将 蘇定方(そていほう) は突厥(中央アジアに興ったテュルク系遊牧国家)の王子 契苾加力(けいひつ・かりょく) らと連合し、水陸二方面から高句麗の平壌城下に迫った。
皇太子は 長津宮に遷り、なおも 水表(河口・沿岸の前線地帯) の軍務を聴取し、自ら指揮を執り続けられた。
(二七)
そのころ皇太子は近臣に語って言われた。
「伝え聞くところによれば、大唐には 魏徴(ぎちょう)、高句麗には 蓋蘇文(がいそぶん|蓋金とも)、百済には 善仲(ぜんちゅう)、新羅には 庾淳(ゆじゅん) がいる。それぞれ一国を預かり、その名声は万里に鳴り響く。当世第一の俊傑で、智略は人並み外れている。
しかし彼らといえども、わが 内臣・中臣鎌足 と比べれば、わざわざ 跨下(相手の股の下をくぐること。屈服の譬え) を通らねば対抗できまい。どうして互角に張り合えようか。」

冬十一月、斉明天皇の 喪柩(棺) が朝倉宮から運ばれ、飛鳥川原で 殯(本葬までの仮安置と追悼儀礼) が営まれた。
挿絵:雷万郎
文章:くさぶき
藤氏家伝「鎌足伝(10)」登場人物紹介
<中大兄皇子>
蘇我氏討滅後に大化改新を推進した人物のひとり。母・斉明天皇の崩後は称制して国政と対外軍事を掌握する。