壬申の乱に勝利した天武天皇は飛鳥浄御原宮で即位した。その即位を祝うために各国より使者が来日する。


日本書紀「天武天皇(10)」

 

 天武天皇二年春正月七日、酒を用意して群臣たちにふるまい、宴会を催した。

 二月二十七日、天皇は役人に命じて壇場を用意させ、飛鳥浄御原宮にて帝位に即いた。正妃を皇后に立てた。


皇后は草壁皇子をお生みになった。これより前に皇后の姉の大田皇女を妃とし、妃は大来皇女と大津皇子をお生みになった。次の妃である大江皇女は長皇子と弓削皇子をお生みになった。次の妃の新田部皇女は舎人皇子をお生みになった。また、藤原大臣鎌足の娘で夫人の氷上娘は但馬皇女をお生みになった。次に夫人氷上娘の妹の五百重娘は新田部皇子をお生みになった。次の夫人、蘇我赤兄大臣の娘の大蕤娘は一男二女をお生みになった。一人目を穂積皇子、二人目を紀皇女、三人目を田形皇女という。天皇ははじめ、鏡王の娘の額田姫王を娶って十市皇女を産ませていた。次に宗形君徳善の娘の尼子娘を召して高市皇子をもうけた。次に宍人臣大麻呂の娘のかじ媛娘は二男二女をお生みになった。忍壁皇子、磯城皇子、泊瀬部皇女、託基皇女である。

 二十九日、勲功のあった人々にそれぞれ爵位を与えた。

 三月十七日、備後の国司が白い雉を亀石郡で捕まえて献上した。そこで、その群の課役を全て免除し、全国に大赦令を出した。この月、書生を集めて一切経を川原寺で写経させた。

 夏四月十四日、大来皇女を天照大神の宮に仕えさせたいとお思いになって、泊瀬の斎宮に住まわせた。ここはまず身を清めて神に近づくためのところである。

 五月一日、公卿大夫及び諸々の臣と連に「初めて出仕する者はまず大舎人として仕えさせよ。その後にそれぞれの能力を鑑みて適職に就かせるように。また、婦人は夫の有無や年齢を問わず、進んで仕えたいと思う者を受け入れよ。その選考は男の役人の例に倣うように」と詔した。

 二十九日、大錦上の坂本財臣が卒去した。壬申の乱での功によって小紫の位を賜った。

 閏六月六日、大錦下の百済沙宅昭明が卒去した。人となりは聡明で、秀才と名高い人であった。この訃報に天皇は驚き、外小紫の位を贈り、重ねて生国百済の大佐平の位を賜った。

 八日、耽羅が王子の久麻藝、都羅、宇麻らを遣わして朝貢した。

 十五日、新羅が韓阿飡の金承元、阿飡の金祇山、大舎の霜雪らを遣わして天皇の即位をお祝いした。併せて一吉飡の金薩儒と韓奈末の金池山を遣わして先帝の弔問をした。その送使である貴干寶と眞毛は承元と薩儒を筑紫に送った。

 二十四日、貴干寶らを筑紫で饗応した。それぞれに禄を賜った。そして彼らは筑紫から帰国した。

 秋八月九日、伊賀国の紀臣阿閉麻呂らに壬申の乱の時の功労を表彰して恩賞を賜った。

 二十日、高句麗が上部位頭大兄邯子、前部大兄碩干らを遣わして朝貢した。そこで新羅は韓奈末金利益を遣わして高句麗の使者を筑紫に送らせた。
 二十五日、即位の祝賀使の金承元ら、中客以上の位の二十七人を京へお召しになった。そして筑紫の大宰に命じて、耽羅の使者に「天皇は新たに天下を平定し、はじめて即位した。このことから、祝賀使を除いて他はお召しにならないのはあなた方が見ての通りだ。この頃寒くなり波も高い。長く逗留すれば気がかりも多くなるであろう。早く帰国なさるがよい」と伝えさせ、国王と使者の久麻藝らにはじめて爵位を賜った。その爵位は大乙上、さらに冠は錦で飾られ、それはその国の佐平の位に相当するものであった。耽羅の使者はすぐに筑紫から帰国した。

 九月二十八日、金承元らを難波で饗応した。様々な音楽を奏で、それぞれに贈り物をした。

 冬十一月一日、金承元は帰国した。

 二十一日、高句麗の邯子と新羅の薩儒らを筑紫の大郡で饗応した。それぞれに贈り物をした。

 十二月五日、大嘗祭に奉仕した中臣、忌部、及び神官たち、並びに播磨と丹波の郡司、その配下の人夫たち全てに禄を賜った。そして郡司らにそれぞれ爵一級を賜った。

 十七日、小紫の美濃王、小錦下紀臣訶多麻呂を高市大寺を造る責任者に任じた(今の大官大寺がこれである)。時に知事の福林僧が老齢によって知事を辞そうとしたが許されなかった。

 二十七日、義成という僧侶を小僧都とした。この日、さらに佐官に僧侶二人を加えた。佐官が四人であるのはこのときにはじまったことである。この年は太歳癸酉であった。


挿絵:雷万郎
文章:水月


日本書紀「天武天皇(10)」登場人物紹介

<天武天皇>
第40代天皇。壬申の乱に勝利し、飛鳥浄御原宮で即位する。