斉明天皇は百済救援のため筑紫へ向かうが、体調を崩してしまう。鎌足は天皇の平癒を願い、神仏に祈りを捧げる。鎌足の忠貞の心を、渡来僧の道顕は褒め称えるのだった。
白雉十二年(661年)冬十月、斉明天皇は難波宮に行幸された。ただちに百済遺臣の将である鬼室福信の意思に添い、筑紫へ向かうことを考えられたためである。百済救援のための倭国軍を派遣するため、まず装備を整えた。白雉十三年(662年)春正月、天皇をお乗せした船は西へ向かい、海路を就航した。この船は同年三月、那大津(現博多湾)へ辿り着いた。そして磐瀬行宮に住まわれた。天皇はここを長津と名を改められた。同年夏五月、朝倉橘広庭宮へ移り住まわれ、徳を以て対外政策に取り組まれた。
同年秋七月になり、斉明天皇は体調を崩された。大臣である鎌足は心底心配し、天地の神に祈った。また仏にも縋り、天皇の長寿を切に求めた。

すると仏像が瞬きの間に彼の全身を撫でた。観音菩薩は現実と見紛うような夢においでになった。信心が仏に通じていたので、観音菩薩は光り輝いていた。このため道顕公という僧が次のように言った。「昔中国で護衛をしていた者は、車輪の軸の部品である轂(こしき)の音を鳴らしたので死を願い、節操と道義を弁えた人間であったため、地に穴を掘り自害しました。雲と鳥が太陽を覆い隠す凶兆が出た日に、宰相は全身全霊で祈りました。黄河の神が祟るという占いの結果が出たとき、大夫という官位にあった者は生贄の儀式を行おうとしました。時を経ても、これらの忠臣たちの美名は不朽のものです。真心を尽くし正道を守ろうとする、素晴らしい方々です。しかし、鎌足公の行いは彼らと比べてもかけ離れているほどの善きものです。どうして同じ水準で語ることができましょうか。」
挿絵:4点
文章:宇良
藤氏家伝「斉明天皇」登場人物紹介
<斉明天皇>
宝皇女、皇極天皇とも。唐・新羅連合軍が百済を攻めたことを受け、百済救援軍の派遣の指揮をとるため政権の中枢を筑紫へ移した。
<鬼室福信>
百済の武将。滅亡した百済復興のための唐・新羅への抵抗勢力の中心となった。最期は豊璋王と反目し、謀反の疑いにより殺害される。
<中臣鎌足>
鎌子とも。中大兄皇子とともに大化の改新を行った。臨終に際し天智天皇となった中大兄皇子から大織冠と藤原姓を賜った。
<道顕>
高句麗から渡来し、大和の大安寺で学僧となる。高句麗の滅亡を予言したとされる。「日本世記」を著したとされるが、現存しない。