おめでとう!珂瑠皇子は文武天皇に即位した!白い亀に白い鹿に祥瑞出まくり!新羅からも遣いが来たよ!


『続日本紀』 文武天皇(1)

続日本紀
文武前紀
 天之真宗豊祖父天皇 文武天皇 第冊三 
 天之真宗豊祖父天皇(文武天皇)は天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)の孫にして日並知皇子尊(草壁皇子)の第二子である。《日並知皇子尊は宝字二年に勅があり、尊号を追贈され、岡宮御宇天皇と称する》母は天命開別天皇(天智天皇)の第四の娘。平城宮を治めし大和根子天津御代豊国成姫天皇(元明天皇)である。文武は寛大で仁徳があり、怒りも顔色・表情に表れることがなく、経史を広く知っており、射芸に優れていた。高天原広野姫天皇(持統天皇)十一年に皇太子となった。

文武元年
八月一日 持統天皇から位の譲りを受けて皇位についた。

八月十七日 天皇は詔をして、次のように述べられた。

 現御神として大八嶋国をお治めになられる天皇が、大命として仰せになることを集まり侍る皇子たち、王たち、百官の者たち、そして天下の公民は皆承るようにと仰せになる。

 高天原に始まって遠い年月が過ぎ、天皇の治世は中頃および現在に至るまで、次々にお生まれになる天皇の皇子たちによって受け継がれ、大八嶋国をお治めになる順序として、天津神の御子のまま天においでになる神がお授けになった通りにとり行ってきた天つ日嗣の高御座の業であると、現御神として大八嶋国をお治めなされる倭根子天皇(持統天皇)がお授けになり仰せになる、尊く高く広く厚い大命を受けたまわり恐れかしこんで、このお治めになる天下を調え平げ、天下の公民を恵み撫でいつくしもうと仰せになる天皇の大命を、皆よく承れと仰せになる。

 これを持って天皇の朝廷の百官の人たち、四方の国々を治めるようにと任じられた宰(国司)に至るまで、天皇の朝廷が行い定めた国法を誤り犯すことなく、明るく浄くまっすぐな誠の心をもって心をゆるめ怠る事なく務め引きしめて、仕えたまわれと仰せになる大命を、皆よく承れと仰られる。

 それゆえ、このような事情を承り悟って、かいがいしくお仕えする人は、その勤めぶりに従って、それぞれにお讃めになり、位階をお上げくださるという天皇の大命を、皆よく聞くようにと仰せになる。

 よって今年の田租・雑徭・庸の半分を免除し、また今年より向こう三年間は、大税の利息を取らない事とし、高齢のものをいたわり物を恵んだ。また親王以下百官の者たちに、身分に応じて物を賜った。諸国に時命じて、毎年放生を行わせるようにした。

八月二十日 藤原朝臣宮子娘(聖武天皇の生母)を文武天皇の夫人とし、紀朝臣竈門の娘、石川朝臣刀根娘を妃(嬪の誤りか)とした。
八月二十九日 王親(皇親)と五位以上の者に食封を地位に応じて与えた。
九月三日 京人の大神大網造百足の家に嘉稲が生え、近江国は白いすっぽんを献上し、丹波国は白い鹿を献上した。
九月九日 勤大壱の丸部臣公君手に直広壱を賜った。
冬十月十九日 陸奥の蝦夷が、その地の産物を献上した。
十月二十八日 新羅の使いの一吉飡金弼徳、副使の奈麻金任想らが来朝した。
十一月十一日 務広肆坂本朝臣鹿田と進大壱大倭忌寸五百足を陸路から、務広肆土師宿禰大麻呂と進広参習宜連諸国を、海路から筑紫に遣わして新羅の使いを迎えさせた。
十二月十八日 越後の蝦狄に地位に応じて物を与えた。
閏十二月七日 播磨・備前・備中・周防・淡路・阿波・讃岐・伊予などの国に飢饉が起きたので、食料などを与えた。また負税の取り立てをやめさせた。
十二月二十八日 正月に人が往き来して拝賀の礼を行うことをやめさせた。もし違反するものがあったら、浄御原令によって処罰した。ただし祖父・兄・氏上であるものに対しては拝賀することを許した。


挿絵:あめ
文章:木春


『続日本紀』 文武天皇(1)登場人物紹介

〈文武天皇〉
第42代天皇。天武と持統の孫。草壁と元明の息子。元正の弟。聖武の父。近親婚のせいか、はたまた父親に似てしまったせいなのか、24歳でこの世を去る事になる。14歳での即位は異例中の異例。

〈持統天皇〉
文武天皇のおばあちゃん。何としても息子・草壁の血筋に皇位を繋げたいという執念に燃えている。まだまだ現役。

〈藤原宮子〉
藤原不比等の娘、文武の夫人、聖武の母。この後に聖武を産み、36年ほど鬱のため引きこもりになる。