大海人皇子率いる吉野方の将軍・大伴吹負は大和を平定し、各将軍を率いて難波へと向かう。長きに渡り続いた壬申の乱も、ついに収束へ······。


日本書紀「天武天皇(9)」

 

7月22日、将軍である吹負は大和を全て平定し、大坂を越え難波へと向かった。他の将軍らは、上道・中道・下道の三道からそれぞれ進むと、山崎に至って河の南に集結した。吹負は難波の小郡に留まると、西方の諸国の国司たちに官鑰・駅鈴・伝印を奉らせた。24日、将軍たちはささなみにて会すと、左右大臣や罪人らを探し捕まえた。26日、将軍たちは不破宮へ向かった。大友皇子の首を掲げ、大海人皇子の陣営へと献じた。
8月25日、大海人皇子は高市皇子に命じて近江方の群臣の罪状を発表させた。

重罪八人を極刑とした。右大臣・中臣連金を浅井郡の田根で斬った。この日、左大臣・蘇我臣赤兄、大納言・巨勢臣比等およびその子孫、中臣連金の子、蘇我臣果安の子は全て流罪とした。この他は全て赦した。これより先、尾張国司・少子部連鋤鉤は山に隠れて自害した。大海人皇子が仰るには、「鋤鉤は功のある人物であったが、罪が無いのに何故死ぬことがあったのか。何か謀でもあったのだろうか」とのことだった。
27日、功勲があった者に勅して恩賞を賜った。
9月8日、大海人皇子は飛鳥へ帰るために伊勢の桑名へ宿られた。
9日、鈴鹿に宿られた。
10日、阿閇に宿られた。
11日、名張に宿られた。
12日、大和へ到着され、嶋宮にお入りになった。
15日、嶋宮から岡本宮へお移りになった。
この年、岡本宮の南に宮を造り、冬に移られた。この宮を飛鳥浄御原宮と言う。
冬11月24日、新羅からやってきた金押実らを筑紫でもてなした。その日に各々禄を賜った。
12月4日、功勲のあった者を選んで冠位を上げさせた。小山位以上の位をそれぞれに合わせて賜った。
15日、船一隻を新羅の使節に賜った。
26日、金押実らは帰路についた。
この月、大紫韋那公高見が薨じた。


挿絵:やっち
文章:あめ


日本書紀「天武天皇(9)」登場人物紹介

〈大伴吹負〉
大伴咋の子とされる。大海人皇子率いる吉野方について数々の武功をあげた。


〈大友皇子〉
天智天皇の子。近江方を率いて大海人皇子に抗うが敗北する。


〈蘇我赤兄・中臣金・巨勢比等(人)・蘇我果安〉
天智天皇や大友皇子によく仕えた重臣。